第3話 隠しディレクトリ
机の上の、黒い小さな箱。
美月は両手でそれを持ち上げた。
空気しか入っていないのに、重かった。
ケースの側面に、白い小さな紙のラベルが一枚貼られていた。
ラベルには、父の文字で三文字だけ書かれていた。
「yui」
母の名前だった。
漢字では、結衣、と書く。だが父は、ファイル名のような場所ではいつも、母の名前をローマ字で書いた。それは美月も知っていた。
美月の指は、ラベルの上で止まった。
止まったまま、しばらく、その小さな三文字だけを見ていた。
机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ていた。
ケンはスリープしていた。今は聞いていない。聞いていないはずだった。
葵は九十分は戻らない。
机の右の奥の方に、父のノートPCがずっと置いたままになっていた。父が亡くなってから、葵が月に一度、通電だけは保ってくれていた。電源を入れると、ファンの低い音が立ち上がった。父の見慣れたログイン画面。
ログインのパスワードは知っていた。父が生前、自分で教えてくれた。デスクトップが開いた。母と五歳の美月と父の家族写真が、壁紙として迎えた。
USBの端子にケースを差し込むと、画面の右下に小さな通知がひとつだけ浮かんだ。
> 暗号化されたボリューム。パスワードを入力してください。
美月はしばらく画面を見ていた。
父のパスワードの癖は知っていた。父は、誕生日や命日のような、自分や家族の節目の日付を、四桁ずつ組み合わせて使った。
「私が忘れたときに、私が思い出す時間を、機械に区切られたくない」と父は言っていた。
一回目。父の誕生日と、自分の誕生日。通らなかった。
二回目。父の誕生日と、母の誕生日。通らなかった。
三回目。母の誕生日と、母の命日。通った。
通った瞬間に、美月の指はキーボードから離れた。
ボリュームの中身が開いた。
ファイルマネージャの画面の中に、ディレクトリがいくつか並んでいた。
「papers_archive」「lectures」「miscellaneous」──研究者の私物にいかにも入っていそうな名前のフォルダ。
中を順に開けてみた。
古い論文の下書き。学会で使ったスライドの残骸。学生から送られてきた相談メールの抜粋。
どれも、父らしい。父らしいだけで、それ以上のものは何も入っていなかった。
美月は一度、ファイルマネージャを閉じかけた。
閉じかけて、止めた。
ファイルマネージャの上のメニューに、見覚えのある項目がひとつだけあった。
> 隠しファイルを表示
父が、かつて一度だけ、美月のノートPCを横から覗き込んで、笑いながら言ったことがあった。「自分のパソコンでは、隠しファイルを表示する設定はいつも切らない。隠しているものを、自分でまで見えなくしておくのは、自分に対して不誠実だからね」と。
美月は、その項目にチェックを入れた。
画面の中で、新しいフォルダがひとつ、淡い色合いで浮かび上がった。
ドット記号で始まる、隠しディレクトリ。
「.yui_logs」
開いた。
中に、音声ファイル。膨大な音声ファイル。
ファイル名はすべて「yui_log_」で始まっていた。続く文字列は日付。最も古いものは、母が亡くなって少しした頃の日付。最も新しいものは、父が亡くなる二週間前。
古い側のいくつかのファイルでは、ファイル名に刻まれた日付と、ファイル自体の更新日時が、ずいぶん離れて並んで光っていた。同じファイルに二つの時間が書かれていることを、美月はそのときは深くは考えなかった。
合計の数は、画面の右下のステータスバーに表示されていた。
千を超えていた。
いちばん古いファイルを、まず開く。
それがたぶん、最初に自分が聞かなければいけないものだった。
美月は椅子の背に深くもたれた。
机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ているような気がした。気のせいだったが、美月はそちらに軽く頭を下げた。
「ごめん。──父さんのものを、開けるね」
「父さん」と口にした言葉が、自分の想定よりも少しだけ自然に口から出ていた。それを美月は、自分でも奇妙に思いながら、いちばん古い音声ファイルの再生ボタンに、指を置いた。
父がひとり、誰にも言わずに遺していた「隠しディレクトリ」の存在にひやりとしたら【びっくり】を。続きが気になったら、★を。




