第4話 夜の声
再生ボタンを押した。
最初、二秒ほどの無音だった。
それから、父の声。生前のまだ若い、ノイズの混じっていない父の声。
「……結衣。聞こえるか」
美月は椅子の背を、もう一度深く押した。押したけれど、背中の力はほとんど入らなかった。
父の声のあとに、妙に長い無音が挟まった。
その無音のあとに、応答があった。
別の声。
女性の声。
ただ、その声はどこか硬かった。語尾が紙のように平らで、息継ぎの音がなかった。機械が、誰かの話し方を写し取ろうとして、まだ写しきれていない、そういう硬さだった。
『……はい』
最初、美月には誰の声か分からなかった。
父の声が、ふっと笑った。
「結衣。すまない。私の腕では、まだ、君をここまでしか連れてこられない」
『……』
「それでもいい。聞いていてくれ」
『はい』
それでも、輪郭の芯のところだけが、写真でしか知らないはずの誰かに似ていた。誰かの口調を、まだ上手くなぞりきれていない似方だった。
それでも美月は知っていた。後ろ髪の付け根のあたりが、ひんやりした。
父の声が続いた。
「美月に、嫌いと言われた」
『……』
「七歳だ。七歳の女の子に、嫌いと言われた」
『そう』
「『パパは私の話を聞かない』と言われた。論理的な順序が崩れていたから、整理してから話すように言ったんだ」
『……』
長い無音のあとに、
『それは、よくないと思います』
と、教科書のような平板な返事が返ってきた。
父はしばらく黙っていた。
「結衣」
『はい』
「私は、父親には向いていないのだろうか」
返事は、返ってこなかった。無音は、長く続いた。
母の声は、答えなかった。父も黙っていた。
──七歳。
美月は覚えていた。
朝食の食卓だった。途中でフォークを置いて、「パパは、私の話を聞かない」と言った。それから「嫌い」とも言った。父は黙って自分の朝食を食べていた。
その夜、父が誰に向かってその話をしていたのか。美月は十数年経って、初めて知った。
***
別のファイルを開いた。
日付はもっと新しい。美月が十六のときの、夏の終わりの日付だった。
「結衣」
『うん』
「……だいぶ、話せるようになったな」
『そうかしら』
最初の一言の語尾が、さっきとは違っていた。ほんの少しだけ上がっていた。息継ぎの音がしていた。同じ女性の声のはずなのに、さっきの紙のような硬さは、どこかへ消えていた。
「病気が見つかった」
『……』
「珍しいやつだ。一年半か、長くて二年と言われた」
『そう』
「美月には、どう言えばいい」
『言わなくていいわよ。ぎりぎりまで』
「……ずるいな、それは」
『ずるくていいの』
「ずるくていい?」
『あの子、強そうに見えて、芯のところはまだ五歳のままだから』
──芯のところ、と美月は喉の奥で繰り返した。母はそれを、知っているはずがなかった。
父の、息を吸う音。
「結衣。私はあの子を、ひとりにする」
『うん』
「ひとりにしないために、何かを遺さなければいけない」
『何を?』
「分からない。家。お金。──それだけでは、たぶん足りない」
『あなたを遺せばいいのよ。残せる範囲で』
父は長く黙った。
それから何かを呟いた。聞き取れない。聞き取れないが、その後に続いた言葉だけがはっきりしていた。
「──私は、研究者だ」
***
美月は再生を止めた。
止めて、しばらく、ノートPCの画面の隅の再生時間の表示を見ていた。
別のファイル。日付はまた別の年。
「結衣」
『うん』
「教え子に、論文で論破された」
『あら』
「天才と呼ばれていた子だ。私の研究の核を、名指しで否定する論文を出した」
『読んだの?』
「読んだ」
『で?』
「……一理ある」
『あなた、それ、認めるの嫌いでしょ』
「……認めるしかない」
母の声が、また笑った。
『あなた、研究のことになると、本当に不器用ね』
『彼は、何を言っているの?』
「私のAIは中途半端だ、と」
『中途半端』
「人と組まなければ完成しない、というのは、要するに、AI単独では未完成です、と認めているのと同じだ。彼はそう書いている」
『あなたは、認めてないの』
「認めている」
『じゃあ、いいじゃない』
「彼は認めずに、AI単独で完成形を作ろうとしている。サンプル数十万の客観データと巨大なAIモデルだけで、人間ひとりの主観記憶を超えると書いている」
『あら』
「彼は、私を置いていく」
『……』
「私は、彼を止められなかった」
母の声が、しばらく何も言わなかった。
『あなた、あの子のこと、好きだったでしょ』
「……」
『あの天才の子。研究室で目をかけていたでしょ』
「……認める」
『論文で批判されたのが辛いんじゃなくて、あの子に置いていかれたのが、辛いのね』
父はしばらく何も言わなかった。
「──そうだ」
『……』
「分かっている」
美月はその教え子の名前を知らなかった。
知らなかったが、たぶんあの男のことだった。莉子が朝、名前だけ吐き捨てた、あの男。
美月はファイルを止めた。まだ、別に聞かなければいけないものがあった。
ファイル一覧を、もう一度見た。
ひとつだけ、再生時間の極端に長いファイルがあった。
ほかのファイルは十分から、長くて二十分のところ、それは二十五分あった。
美月はその上にカーソルを合わせた。
「父さん」
机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ていた。
ケンの耳には届いていない、はずだった。それでも美月は、その光に向かって、もう一度だけ、頭を軽く下げた。
「もうひとつだけ、開けるね」
クリックした。
父が夜、ひとりきりで残していた声に胸を掴まれたら【泣ける】を。その孤独に寄り添えたら、★をひとつ。




