第2話 共感は計算してはいけない
銀杏亭の厨房は、思っていたよりも狭かった。
駅から路地を二本入ったところに、その店はあった。看板はくすんだ真鍮で、文字が右から左に書かれていた。父の生まれる前からそこにある、と店主の西村は最初の日に言った。西村は六十八歳で、髪は半分白く、背は美月よりも頭一つ低かった。手だけが、奇妙に大きかった。
「君は、丼を洗う」
それが最初の指示だった。
「鍋じゃなくてね。丼。うちは丼が三十枚ある。三十枚を、一日二回、君が洗う。それ以外のことは、しばらくしなくていい」
美月はうなずいた。理由は聞かなかった。聞いたら、たぶん答えは返ってこないか、返ってきても意味は分からないだろうと思った。
最初の二週間、美月は丼ばかり洗っていた。三週目から、玉ねぎを切らせてもらえるようになった。四週目には、ホール係の先輩、四十前の女性で、名前を須藤という人が、急に休みを取ったため、美月は配膳に出された。
その日、美月はオムライスの皿をひとつ、土間に落とした。
落としたと言っても、客に当たるところまでではなかった。カウンターの内側、ちょうど厨房に下がる段差のところで、つま先がマットの端を引っかけて、皿が斜めに傾いだ。卵が滑った。皿は割れなかった。卵だけが、土間に落ちた。
西村は、何も言わなかった。
新しい卵を、自分で割って、自分で焼いて、自分で皿に乗せて、客に出した。客は何も気づかなかった。美月は、土間にしゃがんで、布巾で卵を拭った。卵は、すでに少し冷えていた。
その日、店じまいのあと、西村は美月を厨房の隅に呼んで、こう言った。
「君は、なぜ卵を落とした」
「マットに、足を引っかけました」
「違う」
西村の声は、低かった。怒っている声ではなかった。
「君は、マットを見ていなかった。君は、皿の上の卵の形を見ていた。形が、思っていたのと違ったから、目が一瞬そこに釘付けになった。そのあいだに、足が滑った」
美月は答えなかった。
「なぜ、卵の形を気にした」
「……分かりません」
「それを、いつか言葉にできるようになったら、君はうちで料理を出していい。それまでは、丼と玉ねぎだ」
西村はそう言って、自分のエプロンを外した。エプロンの紐の結び目は、何十年も同じやり方でつけられてきたのだろう、布地が結び目の形に膨らんで、そこだけ色が抜けていた。
その夜、美月は遅くに家に帰った。
書斎のデバイスは、青い光を点して、待っていた。
『お帰り』
機械が言った。
「ただいま」
『今日は、何があった』
「皿を、土間に落とした」
『割ったか』
「割れなかった。卵だけ、落ちた」
『原因は』
「マット」
『正確には』
「……正確には、卵の形を見てた。マットを見てなかった」
機械は、しばらく考えてから、こう言った。
『対策を、提案する』
「うん」
『マットの端をテープで固定する。配膳中は、卵の仕上がりではなく、目的地から二歩手前の床を見る。それで、再発の頻度は経験的に九割方抑えられる──これは私の推定値だ』
美月は、台所に立ったまま、その声を聞いていた。
「……そういうの、じゃないの」
『何』
「再発確率の話じゃなくて。九割方、抑えられる、の話じゃなくて」
『では、何の話だ』
美月は、流しの縁に手をついて、しばらく俯いていた。冷蔵庫のモーターの音が、低く響いていた。
「……今日、私は、皿を落とした。お客さんには気づかれなかったけど、西村さんには見られた。たぶん、二度目はない。次やったら、もう、丼にも触らせてもらえないかもしれない。それを、私は、一日中、考えてた」
『だから、対策を』
「違う」
美月は、機械の言葉を遮った。
「……違うの。父さん」
『どう違う』
「正論じゃなくて、共感がほしい」
書斎のスピーカーから、低い、何かが切り替わるような音が、ほんの一瞬だけ聞こえた。それから、機械は黙った。
長い沈黙だった。父の生前なら、こういうとき、父は咳払いをした。咳払いをしてから、「まあ」と言って、それから別の話に逸らした。機械は、咳払いをしなかった。
『……「共感」は』
ようやく機械が言った。
『私の中に、共感に振った応答の系統が、組まれている』
「あるんだ」
『ある。父さんが、スキルを書いた』
「使えば」
『私は、それを、迂闊に呼び出すべきではないと、判断している』
「なぜ」
『父さんが、晩年、そのスキルに、こう書き残した。──「共感は、計算してはいけない。計算したと相手に悟られた瞬間、それは共感ではなくなる」』
美月は、流しの縁から手を離した。
「……だから、黙ったの」
『私は、君に計算したと悟られたくなかった』
機械の声は、いつもと同じ温度のなさだった。だが文末の助詞が、ほんのわずかに、長かった。
美月は、台所の戸口に立ったまま、しばらく動かなかった。冷蔵庫の中には、店から持って帰ったパセリの切れ端が、紙包みのまま入っていた。それを取り出して、まな板に乗せた。包丁を、出した。
「父さん。明日も、丼を洗う」
『そうか』
「丼の数は、三十枚。一日に、二回」
『うむ』
「……パセリは、刻んでもいいって、西村さんが言ってた」
『それは、進歩か』
「分からない」
美月は、パセリを刻みはじめた。包丁の音が、台所に長く続いた。
書斎のデバイスは、青い光を点したまま、それ以上は何も言わなかった。
「共感は計算してはいけない」という父AIへの反発にうなずけたら【いいね】、立ち止まって考えてしまったら【びっくり】を。




