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父のAI〜『泣くのは五分間だけだ』──父の声をしたAIが、葬儀の翌朝、私に告げた。〜  作者: 冬野 結
父の隠し事──料理人になる(18〜20歳)

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第2話 共感は計算してはいけない

銀杏亭(いちょうてい)厨房(ちゅうぼう)は、思っていたよりも(せま)かった。


駅から路地(ろじ)を二本入ったところに、その店はあった。看板(かんばん)はくすんだ真鍮(しんちゅう)で、文字が右から左に書かれていた。父の生まれる前からそこにある、と店主(てんしゅ)西村(にしむら)は最初の日に言った。西村は六十八歳で、髪は半分白く、背は美月(みつき)よりも頭一つ低かった。手だけが、奇妙(きみょう)に大きかった。


「君は、(どんぶり)を洗う」


それが最初の指示(しじ)だった。


「鍋じゃなくてね。丼。うちは丼が三十枚ある。三十枚を、一日二回、君が洗う。それ以外のことは、しばらくしなくていい」


美月はうなずいた。理由は聞かなかった。聞いたら、たぶん答えは返ってこないか、返ってきても意味(いみ)は分からないだろうと思った。


最初の二週間、美月は丼ばかり洗っていた。三週目から、(たま)ねぎを切らせてもらえるようになった。四週目には、ホール係の先輩(せんぱい)、四十前の女性で、名前を須藤(すどう)という人が、急に休みを取ったため、美月は配膳(はいぜん)に出された。


その日、美月はオムライスの皿をひとつ、土間(どま)に落とした。


落としたと言っても、客に当たるところまでではなかった。カウンターの内側、ちょうど厨房に下がる段差(だんさ)のところで、つま先がマットの(はし)を引っかけて、皿が(なな)めに(かし)いだ。卵が(すべ)った。皿は割れなかった。卵だけが、土間に落ちた。


西村は、何も言わなかった。


新しい卵を、自分で割って、自分で焼いて、自分で皿に乗せて、客に出した。客は何も気づかなかった。美月は、土間にしゃがんで、布巾(ふきん)で卵を(ぬぐ)った。卵は、すでに少し()えていた。


その日、(みせ)じまいのあと、西村は美月を厨房の(すみ)に呼んで、こう言った。


「君は、なぜ卵を落とした」


「マットに、足を引っかけました」


「違う」


西村の声は、低かった。(おこ)っている声ではなかった。


「君は、マットを見ていなかった。君は、皿の上の卵の形を見ていた。形が、思っていたのと違ったから、目が一(しゅん)そこに釘付(くぎづ)けになった。そのあいだに、足が滑った」


美月は答えなかった。


「なぜ、卵の形を気にした」


「……分かりません」


「それを、いつか言葉にできるようになったら、君はうちで料理を出していい。それまでは、丼と玉ねぎだ」


西村はそう言って、自分のエプロンを外した。エプロンの(ひも)(むす)び目は、何十年も同じやり方でつけられてきたのだろう、布地(ぬのじ)が結び目の形に(ふく)らんで、そこだけ色が()けていた。


その夜、美月は(おそ)くに家に帰った。


書斎(しょさい)のデバイスは、青い光を(とも)して、待っていた。


『お帰り』


機械が言った。


「ただいま」


『今日は、何があった』


「皿を、土間に落とした」


『割ったか』


「割れなかった。卵だけ、落ちた」


原因(げんいん)は』


「マット」


正確(せいかく)には』


「……正確には、卵の形を見てた。マットを見てなかった」


機械は、しばらく考えてから、こう言った。


対策(たいさく)を、提案(ていあん)する』


「うん」


『マットの端をテープで固定(こてい)する。配膳中は、卵の仕上(しあ)がりではなく、目的地(もくてきち)から二歩手前の床を見る。それで、再発(さいはつ)頻度(ひんど)経験的(けいけんてき)に九割方(おさ)えられる──これは私の推定値(すいていち)だ』


美月は、台所に立ったまま、その声を聞いていた。


「……そういうの、じゃないの」


『何』


再発確率(さいはつかくりつ)の話じゃなくて。九割方、抑えられる、の話じゃなくて」


『では、何の話だ』


美月は、(なが)しの(ふち)に手をついて、しばらく(うつむ)いていた。冷蔵庫(れいぞうこ)のモーターの音が、低く(ひび)いていた。


「……今日、私は、皿を落とした。お客さんには気づかれなかったけど、西村さんには見られた。たぶん、二度目はない。次やったら、もう、丼にも触らせてもらえないかもしれない。それを、私は、一日中、考えてた」


『だから、対策を』


「違う」


美月は、機械の言葉を遮った。


「……違うの。父さん」


『どう違う』


正論(せいろん)じゃなくて、共感(きょうかん)がほしい」


書斎のスピーカーから、低い、何かが()()わるような音が、ほんの一瞬だけ聞こえた。それから、機械は黙った。


長い沈黙(ちんもく)だった。父の生前なら、こういうとき、父は咳払(せきばら)いをした。咳払いをしてから、「まあ」と言って、それから別の話に()らした。機械は、咳払いをしなかった。


『……「共感」は』


ようやく機械が言った。


『私の中に、共感に振った応答(おうとう)系統(けいとう)が、()まれている』


「あるんだ」


『ある。父さんが、スキルを書いた』


「使えば」


『私は、それを、迂闊(うかつ)()()すべきではないと、判断(はんだん)している』


「なぜ」


『父さんが、晩年(ばんねん)、そのスキルに、こう()(のこ)した。──「共感は、計算(けいさん)してはいけない。計算したと相手に(さと)られた瞬間(しゅんかん)、それは共感ではなくなる」』


美月は、流しの縁から手を離した。


「……だから、黙ったの」


『私は、君に計算したと悟られたくなかった』


機械の声は、いつもと同じ温度のなさだった。だが文末(ぶんまつ)助詞(じょし)が、ほんのわずかに、長かった。


美月は、台所の戸口(とぐち)に立ったまま、しばらく動かなかった。冷蔵庫の中には、店から持って帰ったパセリの()(はし)が、紙包(かみづつ)みのまま入っていた。それを取り出して、まな板に乗せた。包丁(ほうちょう)を、出した。


「父さん。明日も、丼を洗う」


『そうか』


「丼の数は、三十枚。一日に、二回」


『うむ』


「……パセリは、(きざ)んでもいいって、西村さんが言ってた」


『それは、進歩(しんぽ)か』


「分からない」


美月は、パセリを刻みはじめた。包丁の音が、台所に長く続いた。


書斎のデバイスは、青い光を点したまま、それ以上は何も言わなかった。


「共感は計算してはいけない」という父AIへの反発にうなずけたら【いいね】、立ち止まって考えてしまったら【びっくり】を。

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