第7話 運命の歯車が、回る
卒業式の前日の夜、美月は、料理人になると決めた。
半年前に死んで代わりとなった円筒形デバイスのAIは、青い光を点し、父の声で、美月に理由を問うた。
この夜の決定が、父の遺した未完の研究と、まだ名前も知らない桐生という男との因縁の入口に位置していたことを、美月は、このときまだ、知らなかった。
***
式は明日の午後だった。袴は莉子の家から借りることになっていて、髪結いの予約は明日の十二時。莉子からは夜のうちに『明日の朝、迎えに行く。髪盛りすぎ注意』とスタンプ付きでメッセージが来ていた。美月は『りょ』とだけ返した。
寝るまでの三時間ほどを、美月は父の蔵書を段ボールに詰める作業に充てた。父のAI研究室を引き継いだ室田葵から、専門書を後輩たちに譲りたいと連絡が来ていて、平日のうちに取りに来ることになっていた。リビングで詰めるのは気が散ると思い、書斎に箱を運び込んだ。
机の上のデバイスは、青い光を点したままだった。
『支度は、間に合うのか』
機械が言った。父の声で、言った。
「髪結いが、明日の十二時。式は、明日の十三時」
『式辞は十五分。卒業証書授与は、君のクラスは五番目で、十三時三十二分から始まる順序になっているはずだ』
「そんなとこまで知ってるんだ」
『学校のサイトに、進行表が載っている』
美月は手を止めなかった。本棚の中段、父が「学生用」と書き込んだ箱に、専門書を背表紙の順で詰めていく。
『美月。進路の話を、いつする』
美月は手を止めた。背表紙の二冊が、半端に飛び出したまま、棚の縁で止まっていた。
「もうしたよ」
『いや。決定の事後報告は受けた。判断過程の話は、まだしていない』
「同じことじゃないの」
『違う』
機械の声に、温度はなかった。
『君は四月から、駅向こうの「銀杏亭」に住み込みで弟子入りすると言った。理由を、説明していない』
「説明しないとだめ?」
『父さんなら、説明させる』
それは事実だった。父は決定の事後報告を嫌う人だった。「お前は決めるのは早いが、決めた理由を言葉にするのが下手だ」と、生前何度も言われた。
美月は本を一冊棚から抜いて、箱に入れた。背表紙には『感情シミュレーションの限界』と書かれていた。父の名前が著者欄にあった。
「……父さんの本」
『私のもとになっているデータの一部だ』
「読んだ?」
『父さんの全著作は、私のストレージに最初から積まれている。読む、というのが目を通すことを指すなら、コンテキストに著書をのせるだけだ』
美月は本を閉じて、箱に戻した。
『進路の話だが』
機械が話を戻した。
『君の成績と模試判定から見て、最適解は管理栄養士養成課程のある四年制大学だ。後期日程の出願は、まだ間に合う。私が用意できる』
「いらない」
『理由は?』
「ない」
『ない、はずがない』
「ない。あっても、言葉にならない」
機械は、しばらく黙った。書斎の窓の外は、すでに暗かった。隣家の庭の梅が、外灯の光で白く浮いていた。風はなかった。花は、なぜか落ちていた。
『銀杏亭は、創業六十二年の個人経営だ。後継者は不在。住み込み修行の労働時間は、君がこれまで耐えてきた範囲を超える』
「うん」
『君は、それを知っていて選んだ。父さんなら、止める』
「止めるかな」
美月は箱の蓋を閉じた。テープを切る音が、書斎に長く響いた。
「父さんは、止めないよ」
『なぜ、そう思う』
「父さんは、私が決めた理由を言葉にできないとき、最後はいつも、好きにしろって言った」
機械は、また黙った。
『……データには、その傾向がある』
「でしょう」
美月は箱を床に下ろして、次の段に手を伸ばした。父の手書きのメモが何枚か、本のあいだに挟まっていた。一枚を引き抜いて、目を落とした。
走り書きだった。日付は三年前の冬。
> ノイズの中に信号がある場合、モデルに、それをどう教えるか。
その下に、もう一行、別の日付で書き足されていた。
> 未完。
美月は、そのメモをしばらく見ていた。意味は、分からなかった。父はいろんな研究をしていた人だった。途中で投げ出したものも多かった。
『美月。何を、見ている』
「父さんのメモ」
『読み上げてくれるか』
「……ううん。何でもない」
美月は、メモを本のあいだに戻した。挟んだ本の背表紙を、もう一度確かめた。それは料理の本ではなかった。父の専門書だった。
なぜそれがそこに挟まっているのか、美月には分からなかった。
ただ、何か、自分が焼きあげなければならない一皿が、まだどこかに残っている気がした。理由は、やはり、言葉にならなかった。
『美月。銀杏亭の、何が、君に決定をさせたのか』
「分からない」
『分からないままで、いいのか』
美月は、箱の上に手を置いて、しばらく動かなかった。
「分からないまま行く」
『そうか』
機械は、それ以上は何も言わなかった。
書斎の時計が、十一時を打った。莉子から、明日の朝、袴を持って迎えに行くという連絡が、机の上のスマートフォンに小さく光ったままだった。
美月は、箱を一つだけ持ち上げて、廊下に出した。
書斎のデバイスは、机の上で、青い光を点したまま、何も言わなかった。
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