第6話 完璧なオムレツ
夕方になっても、美月はまだ何も食べていなかった。
冷蔵庫を開けた。卵が六個、半端に残っていた。父が入院する前に、近所の店で買ったものだ。賞味期限は明日までだった。
しばらく扉を開けたまま、美月はそれを見ていた。冷気が足首を冷やした。
扉を閉めた。
書斎に戻った。
円筒形のデバイスは、机の上で、朝と同じ場所にあった。美月は椅子に座らず、立ったままスイッチを長押しした。インジケータが青く灯り、白く変わるまでの三十秒を、今度は数えなかった。
『冷蔵庫に卵があるか』
機械は言った。前置きも、再起動の挨拶もなかった。
「……あるよ」
美月は答えた。
『君は卵料理が好きだ。君が食卓で何を食べたかという記録は、過去の食事ログに残っている。卵料理は最頻出のひとつだ。葬儀の疲れには卵がいい。たんぱく質、脂質、必須アミノ酸、いずれの観点からも、いま君の体に必要だ』
「……」
『焼くか』
「……焼く」
『ならば、机の縁に樹脂のケースがある。朝、君が引き出しから出して、開けずに置いたものだ。開けろ』
美月は視線を机の縁に落とした。朝、引き出しから出したまま置いていた、薄い樹脂のケースだった。蓋を開けた。中には、細い耳掛けがひとつ、布の窪みに収まっていた。父は、耳に何かを掛けて歩く人ではなかった。──ここまで、と美月は思った。ここまで、先回りして遺してあるのか。
「……これ、なに」
『骨伝導と視野共有の端末だ。台所までは、この円筒の声は届かない。耳にかけろ』
美月はそれを耳にかけた。位置が決まると、右の耳の奥に、骨を通る振動の気配があった。
『右側、視野を確認した。台所まで歩け』
機械は淡々と告げた。アームの先で何かが光ったわけでも、視界に表示が浮かんだわけでもなかった。ただ、いま自分が見ているものが、書斎の机の上の円筒にも届いているのだ、と美月は理解した。
『ならば、私の指示通りに動け』
声の調子が、少しだけ変わった。朝聞いた父の声に、もう一段、教師めいた硬さが乗っていた。同じ声のまま、別の役割に切り替わったのだと、美月はあとから思った。父の人格の下で、台所のレシピを読み上げる機能が呼び出されている。父の声を借りた、別のものが動いていた。
『卵は三個。フライパンの予熱は摂氏百六十度。バターは十グラム。塩は一・〇グラム。牛乳を大さじ一。火から外すタイミングは、私が指示する』
美月は、戸口に立ったまま、しばらく黙っていた。
「……父さん、そんなふうに言ってなかった」
『指示通りに動け』
機械は繰り返した。声に、温度はなかった。
うるさい、と思った。指の先が、フライパンの取っ手に伸びかけて、止まった。父の声で数値を読み上げる箱に、なぜ自分が従わなければならないのか。一度耳掛けを外しかけて、しかし美月は、それをしなかった。指示が止んだら、家はまた、朝と同じ静けさに戻る。それは、いまの自分には、もっと耐えられないことのほうだった。
美月は台所に立った。書斎のドアは開けたままにした。父の声は、もう戸口の向こうから来ていなかった。耳の右の奥、骨の内側のいちばん近いところから、続いた。
『キッチンスケールは、シンクの上の棚の三段目だ。出せ』
「……うん」
スケールは、母が生きていた頃から家にあるものだった。デジタル表示が古びていて、〇点をとるのに少し時間がかかった。卵を一つ割って、ボウルに落とす。次の卵。三つ目。三つ目はわずかに殻が混じった。
『殻』
「分かってる」
指で取り除いた。塩を量り、牛乳を大さじで掬う。『擦り切りより気持ち多めに、表面張力が崩れる手前まで』と機械は言った。
フライパンを火にかけた。デバイスから、低い電子音が聞こえた。
『予熱を計測している。あと三十二秒待て』
待った。三十二秒は、長かった。長すぎて、途中で美月は流しに視線を逸らした。シンクの隅の水切りに、葵が午前中に置いていった湯呑みが、伏せたままになっていた。
『摂氏百六十度に到達。バターを投入しろ』
十グラム。スケールに乗せて切ったバターは、思ったより小さかった。フライパンに落とすと、即座に溶けた。
『卵液、投入。三秒待って、奥から手前へ撹拌、毎秒二回転』
美月は黙って従った。一度、ボウルの中に殻のかけらが残っていなかったか、もう一度たしかめたいような気がして、手の動きが止まりかけた。だが指示は次に進んでいた。指示は途切れなかった。すべてが数値で来て、すべてが正しかった。
『火から外せ。今だ』
外した。
『皿は、温めてあるな』
「うん」
『滑らせろ。手首は使わず、フライパンの傾斜だけで』
滑った。
皿の上で、卵は完璧な紡錘形にまとまった。表面はなだらかで、ひと筋の皺もない。湯気が真上にまっすぐ立ち上った。
美月は、皿を両手で持ち上げて、しばらくそのまま立ち尽くした。
「……綺麗」
『そうだ』
機械は、短く相槌を打った。
食卓に運んだ。父の席の向かいに、自分の席があった。父の席の椅子は、入院前と同じ角度で引かれていた。美月は座って、皿を見つめた。
「いただきます」
機械は何も言わなかった。
フォークを入れた。表面は薄い膜のように張っていて、しかし内側はとろりと崩れた。美月の知らない口当たりだった。
口に入れた。
塩はちょうど良かった。バターは適切に香った。牛乳の丸みが、卵の角をきれいに削っていた。完璧な、料理本のいちばん最初のページに載るような、オムレツの味だった。
美月は、フォークを置いた。
「……違う」
声は、自分の喉から出たというより、胸の奥のほうから直接漏れたようだった。
「父さん、これ、違う」
『何が』
機械が、聞き返した。
「パパのは……もっと、いびつで」
美月は、皿を見ていた。皿の上の紡錘形は、なだらかで、隙がなかった。
「もっと、いびつで……」
息が一度、詰まった。同じ言葉が、喉のところでまた絡んだ。
「……焦げてて」
機械は、答えなかった。
「これ、誰のオムレツ」
機械は、しばらく黙っていた。
『……父さんが君のために焼いていたオムレツのレシピは、ログに残っていない。父さんは、家庭での料理を数値で記録する習慣がなかった』
「……」
『代わりに、Web上の家庭朝食レシピの最上位十二件を比較して、平均と中央値の近いところを取った。父さんの娘が起き抜けに食べる一皿として、いま私が出せる、いちばん多くの家庭が良いと言うレシピが、これだ』
「……父さんのじゃ、ないんだ」
機械は、答えなかった。
「父さんのは、こんなに上手じゃなかった」
涙は、フォークを置いた瞬間からもう、頬を伝っていた。
「上手じゃ、なかったの。下手だったの。下手で、形が崩れてて、それでも、……」
そこから先は、言葉にならなかった。
機械は、長いあいだ、黙っていた。
『……父さんのオムレツは、すべての数値で、いま私が出した一皿に劣っていたはずだ。それでも、君にとっては、こちらが正解ではなかった』
「うん」
父の声のままだった。だが、いつもの父の話の終わりにあったはずの照れ隠しの韜晦は、やはり、なかった。
美月は、答えなかった。皿の上のオムレツが父のオムレツではないということだけが、口の中の温度として、はっきりと分かっていた。
涙は止まらなかった。
美月は、皿に手を伸ばさず、そのまま食卓に置いておいた。湯気が、まっすぐに上がり、やがて消えた。
書斎のドアは開いたままで、デバイスのインジケータの白い光が、廊下の床に細く伸びていた。家の他の電気は、もう全部消していた。書斎の灯りだけが、家の中で起きていた。
美月は、皿の前に座ったまま、長いあいだ動かなかった。
明日も、この機械はここにあって、卵は冷蔵庫にあるのだろう。
その先のことは、美月には、まだ、分からなかった。
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