第5話 葵の訪問
葵は、約束した正午より十分早く来た。
「お邪魔します。手伝いの段取りなんですが――」
玄関先で言いかけて、葵は美月の顔を見て、口を閉じた。美月がどれだけ眠っていないか、葵には一目で分かったらしい。
「お茶、いれます。先生のお気に入りの茶葉、台所のどこにありますか」
「……右上の、缶」
「分かりました」
葵は勝手知ったる、というほどではないが、必要以上に遠慮もしないやり方で台所に入っていった。父は生前、葵を何度かこの家に呼んでいたのだろう、と美月は察した。父は研究の話を家に持ち込まなかったが、研究室の人間を呼ばなかったわけではないらしい。
茶を二杯、テーブルに置いて、葵は向かいに座った。
「先生のあれ」
葵は切り出した。前置きはなかった。
「起動されましたか」
「した。一回だけ」
「……どうでした」
「父の声が出た」
葵は、湯呑みに視線を落として、少しだけうなずいた。
「あれは、先生がご自身で作られたものです」
葵は、それだけ言った。続きを言うかどうか、少し迷ってから、湯呑みの側面を一度だけ撫でた。指の関節が、年齢に対して少し荒れていた。たぶんキーボードの打ちすぎだ、と美月はぼんやり思った。葵が父を「先生」と呼ぶときの口の動きが、今日はわずかに遅かった。葵もまた、この家を「先生のいない家」として歩いている人なのだ、と美月は思いかけて、すぐにその考えを引っ込めた。今日この家で、誰かの不眠まで気にかける余裕は、自分にはなかった。
「……ご家族の同意なしに公にすることは、できないものです。法律のほうも、葬送のほうも、まだ整っていません。だから、この家から外には、出ていません」
葵は、自分に言い聞かせるような口調で、そう付け足した。
「メンテナンスは、私が引き受けます。半年に一度、見にきます。費用はいただきません」
美月は、湯呑みのふちに指をかけたまま、うなずく代わりに目を伏せた。
「対話のログだけは、研究室のサーバ側にも一部届きます。それは、先生が生前そう設計されました」
「……うん」
「研究としての扱いは、倫理審査を通してあります。先生がご自身を被験者にして。ご遺族――美月さんの分は、必要な書面を後日お持ちします。読んで、嫌なら止められます。送信を止めることも、全部消すことも」
葵はそこで一度、息を継いだ。
「世の中には、こういうものを商売にしている事業者もいます。声と話し方だけ、それらしく真似て遺された人に売るような。先生のあれは、そういうものとは違います。ただ、外から見たら同じに見える。だからしばらくは、家の中だけのものにしておくのが、いいと思います」
「……うん」
「使うか、使わないかは、美月さんが決めることです。先生も、そう言っていました」
葵は、それから少しだけ口ごもった。何かを言いかけて、言わずに飲み込んだのが、美月にはわかった。
「……葵さん」
「はい」
「父は、あれに、何か仕掛けてるの」
葵は、視線を上げた。眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ、何かを探るように揺れた。それは本当に一瞬で、すぐに葵は静かに首を振った。
「私が把握している範囲では、特別なものはありません」
把握している範囲では。その但し書きを、美月は聞き逃さなかった。
葵は湯呑みを置き、姿勢を正した。
「……今日は、決められない」
「ええ」
「決めなくていいの」
「いいです」
葵は、湯呑みの茶を半分ほど残して、立ち上がった。
「来週、メンテの第一回で寄ります。それまでに何か起動して困ったことがあれば、いつでも連絡してください」
「うん」
葵は浅く頭を下げて、玄関を出た。
玄関先で見送ったあと、美月は茶碗を二つ、台所に運んだ。葵の飲み残した分を、自分で飲んだ。茶葉の選び方は確かに父の好みだった。
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