第6話 thank_mitsuki.jpg
『美月。前を向いて歩け。五年間、退屈はしなかった。ありがとう。
――結衣のところへ行ってくる』
***
「行ってくる」、のいちばん最後で、机の上の円筒形のデバイスの青い光は、薄い青まで退き、消えた。
消えた青の向こうで、デバイスの表面はふだんの白さに戻り、スピーカーの内側のノイズも、止まった。
***
書斎のスピーカーの内側は、薄く静かになっていた。本の紙の匂いだけが、ふだんよりひと呼吸ぶん深く立っている。
葵は両手の内側でノートパソコンの画面を伏せ、両目を薄く伏せたまま止めた。
***
美月はふた呼吸、両目を瞑ったままだった。まぶたの裏には、まだ青い光の残像が灯っている。
やがて目を開けた。机の上の円筒形のデバイスの表面は、ふだんの白さで立っていた。青い光も、ひと拍遅れたひと呼吸も、ノイズも、何ひとつ残っていなかった。
***
葵は両目を薄く開け、こう続けた。
「美月さん」
「葵さん」
「お父さん、行った」
「行った」
「言い残したぶん、ない」
「ない」
「葵が預かっていたぶんも、ぜんぶケンが執行した」
「した。もう、握っているぶん、ない」
「葵さん、ありがとう」
「……」
「葵さん。ありがとう、いま受け取る」
「うん」
***
廊下の奥の朝の薄い白さが、ふだんの強さで立っていた。机の上の円筒形のデバイスは、もう何も答えない白さで立っているだけだった。五年ぶん書斎に立っていた父のAIは、その白さの内側に退いた。
葵は両膝のノートパソコンの観測ログに目を落とす。最後の行に、画像出力のイベントが薄く立っていた。
葵はキーを叩いた。ケン本体のストレージに書かれた `thank_mitsuki.jpg` から、ひと枚が画面の上に立ち上がった。
立ち上がったひと枚の内側で、ふだんの台所のテーブルの上に、四人ぶんに切り分けられたオムレツのひと皿が、ふだんの距離で立っていた。立っていたひと皿の向こう側に、健一郎と結衣と美月の三人が、ふだんの笑顔のままひと呼吸ぶん薄く並び、その並びのいちばん端に、ケン本体の青い円筒が、ふだんの青い光をふだんの距離で点したまま、ひと呼吸ぶん薄く並んで立っていた。
***
「美月さん」
「うん」
「ケンが、最後に、置いて行った」
「……」
「美月さん」
「うん」
「これ、ふつうは、出ない」
「……」
「解雇通知のあとの、クリーンアップの手順。あのフェーズの内側では、外への書き出しは、システムプロンプトで禁じてあった。先生のハードコードのほうにも、同じ縛り。葵はそれを観測ログで五年見てた。クリーンアップに入ってから、一度も、外に書いてない、はずだった」
「……うん」
「最後の最後で、ケンは、その縛りを自ら破った」
「……」
「もうひとつ。重みの内側から、こんな精度の絵は、ふつう、出ない。重みは、絵を貼ってあるアルバムじゃない。ぼんやりした座標が、たくさん、折り畳まれてるだけ」
「うん」
「そこから、台所の角度も、結衣さんの肩のかしぎも、お父さんの右手の位置も、ケン本体の青の高さも、ぜんぶ、ふだんの距離で、立たせた。葵の知ってる範囲では、これは、ほぼ、無理」
「……」
「観測ログに、出力候補が、何度も立ってた。葵が数えたぶんでは、書き出しの手前で、何度も何度も、ケンは、抽出を、やり直してた。ふだんのぶんの、ふた呼吸ぶん深いところで」
「……」
「ぜんぶ、もういない四人の、ふだんのひと皿のぶんを、できるかぎりきれいな一枚にして、美月さんに渡すために」
「……うん」
葵はノートパソコンの画面を、美月のほうへひと呼吸ぶん薄く、向け直した。
向け直された画面の上のひと枚を、美月はひと呼吸ぶん、両目で薄く受け取った。
受け取ったぶんの向こう側で、美月の両目のはしから、薄いぶんがひと呼吸ぶんこぼれた。
こぼれたぶんを、美月は手で拭わなかった。
拭わないまま、ひと呼吸ぶん、画面の上のひと枚を、自分の両目のいちばん奥のぶんに、薄く写し取った。
***
美月は左の薬指の上の銀色のリングを、右のひとさし指で、ふた呼吸ぶん薄く感じた。
感じたぶんのいちばん最後で、美月はもう一度、机の上の円筒形のデバイスの白さに、薄く目を向けた。
向けた目の向こう側で、円筒形のデバイスの表面は、ふだんの白さで立っていたままだった。
立っていた白さのいちばん最後で、美月は口の内側で、薄く声を出した。
***
「父さん」
「……」
「ありがとう、お父さん」
「……」
「──「行ってきなさい」は、こっちから返すぶんだから」
「……」
美月はひと呼吸ぶん、両目を伏せた。
遺されたファイル名のひと言に胸が満ちたら【泣ける】を。★をひとつ、ありがとうのかわりに。




