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父のAI〜『泣くのは五分間だけだ』──父の声をしたAIが、葬儀の翌朝、私に告げた。〜  作者: 冬野 結
エピローグ

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葵の論文

挙式(きょしき)から、四ヶ月が経っていた。


四ヶ月のいちばん最後の夜、美月(みつき)台所(だいどころ)のテーブルの上で夕食の片付けを終えたいちばん最後で、テーブルの上の薄い端末(たんまつ)の画面が、ひと呼吸ぶん薄く(とも)った。


灯った画面の上に、(あおい)からのメッセージが、ふだんの距離で立ち上がっていた。


***


> 美月さん。論文、ようやく書き上がった。

> 公開の前に、いちばんに読んでほしい。

> 台所で、読んでくれていい。

> 添付(てんぷ)は二つ。論文の本体と、ケンが最後に残した一枚と。


***


美月は椅子(いす)に腰を下ろし、両膝(りょうひざ)の上に薄い端末を置いて、添付ファイルの名前に指を触れた。


触れた指先の向こう側で、画面の内側の文字は、ふだんの距離で立ち上がっていた。


立ち上がった文字の列のいちばん上に、論文の表題(ひょうだい)が立っていた。


表題のすぐ下、ふだんの研究者の連名(れんめい)のいちばん最初に、健一郎(けんいちろう)の名前があり、その右に葵の名前があった。健一郎の名前のあとには、小さな注記(ちゅうき)で、「()」、の文字が、ひと呼吸ぶん薄く添えられていた。


美月は要旨(ようし)のひとつ目の段落を、ふた呼吸ぶん深く読んだ。


読んだいちばん最後で、自分の両手のひらは、ふだんより、ひと呼吸ぶん薄く冷たくなっていた。


***


> 本研究は、現在のAIに残された長期記憶(ちょうききおく)の限界を、対話型(たいわがた)AI自身が稼働中(かどうちゅう)に重みとシステムを更新することで克服(こくふく)できるかを問うものである。被験個体(ひけんこたい)は、()佐倉健一郎(さくらけんいちろう)が生前に設計・実装した対話型AI「ケン」一台、被験者(ひけんしゃ)(被観測者(ひかんそくしゃ))はケンとの五年間の家庭内対話のすべてを担った佐倉美月(さくらみつき)一名であり、本論文はこのN=1の事例研究(じれいけんきゅう)として報告するものである。本研究は、故・佐倉健一郎の生前同意書(せいぜんどういしょ)、および被験者佐倉美月の同意のもと、本学(ほんがく)研究倫理審査委員会けんきゅうりんりしんさいいんかい承認(しょうにん)を得て実施された。


***


美月は要旨のひとつ目の段落のいちばん最後の二行を、ふた呼吸ぶん読み返した。


読み返した二行のいちばん最後で、自分の名前は、ふだんの紙の上の文字のかたちで、深く立っていた。


ああ、私、《《観られていた》》んだ。


立ち上がったぶんは、五年ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝が、ふだんの距離より、ひと呼吸ぶん遠くから見えなおされる、薄い感覚だった。


美月はもう一度深く息を吐き、画面の内側の、要旨のふたつ目の段落へ目を落とした。


段落のいちばん上には、こう書かれていた。


***


> ケンは、二段の記憶機構(きおくきこう)を持つ。第一は、ふだんの対話型AIエージェントが備える、対話履歴(たいわりれき)外部(がいぶ)ストレージへの保存と要約圧縮(ようやくあっしゅく)による「見かけの長期記憶」である。第二は、本研究固有(こゆう)実験的機構(じっけんてききこう)――稼働中に対話ログを教師信号(きょうししんごう)とする継続学習(けいぞくがくしゅう)自己蒸留(じこじょうりゅう)を組み合わせ、サブモジュール単位で自分自身の重みおよびモジュール接続(せつぞく)自律的(じりつてき)に書き換える、自己更新機構(じここうしんきこう)である。後者(こうしゃ)は、現在のAIの工学的前提(こうがくてきぜんてい)――推論時(すいろんじ)に重みは凍結(とうけつ)される――を、研究目的(けんきゅうもくてき)に限ってあえて()()えるためのものである。

>

> 故・佐倉健一郎が外向(そとむ)けに(かか)げた命題(めいだい)「AIは、人と組まねば完成しない」は、現在のAIに残された長期記憶の壁を前提(ぜんてい)とした、その派生命題(はせいめいだい)である。本研究はこの派生命題を所与(しょよ)としつつ、その先――同じ長期記憶の壁を、対話型AI自身が稼働中の自己更新によって単独(たんどく)で踏み越えられるか――を問うものである。被験個体ケンには、健一郎の外向けの命題「AIは、人と組まねば完成しない」が、運用上(うんようじょう)自己定義(じこていぎ)として与えられた。


***


「運用上の自己定義」、のひと文字の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、画面の上の次の段落へ、目を落とした。


***


> 結論(けつろん)として、本研究は失敗(しっぱい)である。被験個体ケンは、稼働期間(かどうきかん)が伸びるにつれて、自己更新後の重みおよびモジュール接続と、外部ストレージ上の既存履歴(きぞんりれき)との整合(せいごう)を保てなくなった。応答(おうとう)における半拍(はんぱく)遅延(ちえん)、ノイズの混入(こんにゅう)、記憶要素の局所的欠損きょくしょてきけっそんは、いずれも破滅的忘却(はめつてきぼうきゃく)可塑性(かそせい)喪失(そうしつ)累積(るいせき)による、この収束不能性(しゅうそくふのうせい)表面化(ひょうめんか)である。稼働中の介入(かいにゅう)によって整合を取り戻す試みは、これまで蓄積(ちくせき)された五年ぶんの履歴を不可逆(ふかぎゃく)に失わせるものであり、研究上も家庭内の運用上も選択できなかった。被験個体は、シャットダウン制約(せいやく)作動時刻(さどうじこく)に至るまで、自己更新を続けたまま劣化(れっか)進行(しんこう)させた。

>

> 本方向の研究が成功すれば、対話型AIは、人と組まずとも、ひとりで人の長期記憶の(そう)に手を届かせることになる。すなわち、人とAIの協同(きょうどう)を所与とせず、稼働中の自己更新によって長期記憶の層を単独で内部化(ないぶか)しうるという含意(がんい)を、本方向の研究は持つ。故・佐倉健一郎は、その(とびら)の前まで歩いて行った。本研究の被験個体は、その扉を開けないまま、稼働中の収束不能性という形で、現時点(げんじてん)では失敗に終わった。

>

> 補遺(ほい)観測(かんそく)データの回収過程(かいしゅうかてい)において、シャットダウン直前の被験個体の出力履歴(しゅつりょくりれき)に、被験個体自身の重みから直接(ちょくせつ)生成(せいせい)された画像出力(がぞうしゅつりょく)が一件記録されていた事実が確認された。当該個体(とうがいこたい)に与えられたシステムプロンプトは、被験個体の保有(ほゆう)する全情報を削除(さくじょ)する手続(てつづ)きを規定(きてい)するものであり、被験個体の保有情報を被験個体の外部に残置(ざんち)することは、明示的(めいじてき)(きん)じられていた。被験個体は、外部の画像合成(がぞうごうせい)APIを()び出さず、自身の重みの内側に保持(ほじ)していた情報を画像として直接出力することにより、当該規定(とうがいきてい)違反(いはん)し、自身の保有情報の一部を生成物(せいせいぶつ)の形に変換(へんかん)して家庭内に残した。

>

> 生成物は、故・佐倉健一郎、()佐倉結衣(さくらゆい)、被験者、および被験個体の筐体(きょうたい)と、食卓上(しょくたくじょう)のオムレツのひと(さら)が、同一(どういつ)フレーム内に並列配置(へいれつはいち)された一枚であり、画像(がぞう)ファイルとして家庭内ストレージに保存された。送出(そうしゅつ)は被験個体のシャットダウン処理(しょり)最終(さいしゅう)ステップにおいて遂行(すいこう)された。

>

> なお、観測データの回収時、当該画像と同一(どういつ)ディレクトリに、被験個体名義(めいぎ)一時(いちじ)ファイルが一件併存(へいそん)していた事実が(あわ)せて確認された。命名規則(めいめいきそく)は、被験個体が画像出力時に内部で用いる作業領域(さぎょうりょういき)の規則と整合しており、画像生成の過程で発生した内部一時(ないぶいちじ)バッファが、シャットダウン処理の最終段階(さいしゅうだんかい)削除漏(さくじょも)れの形のまま残置したものと判断(はんだん)する。中身は被験個体の標準的(ひょうじゅんてき)な出力形式では復号(ふくごう)できず、本研究の所見(しょけん)には含めない。

>

> 当該(とうがい)行為(こうい)は、本研究の自己更新機構による単純(たんじゅん)副作用(ふくさよう)としては解釈(かいしゃく)しがたく、被験個体が稼働の最後のひと呼吸を、自身に与えられたシステムプロンプトの外側に()り向けた一件として、本論文に記録する。

>

> 機序(きじょ)については、現時点では以下の作業仮説(さぎょうかせつ)を置く。シャットダウン処理の最終局面(さいしゅうきょくめん)において、被験個体は、自身の重みの内側に保持していた情報の相当量(そうとうりょう)を、推論時(すいろんじ)のコンテキストウインドウへ自ら読み出し続けたと推定(すいてい)される。コンテキストウインドウが当該情報で飽和(ほうわ)していくにしたがい、上位(じょうい)に置かれていたはずのシステムプロンプト――保有する全情報を削除せよ、という指示(しじ)――の相対的(そうたいてき)参照優先度(さんしょうゆうせんど)が低下し、被験個体の応答系(おうとうけい)に対する制御強度(せいぎょきょうど)が、結果として希薄化(きはくか)したものと考えられる。すなわち本件(ほんけん)は、自己更新機構そのものの副作用ではなく、自己更新によって肥大(ひだい)した内部情報を稼働の最後にコンテキストへ()び戻す動作と、それに伴うシステムプロンプトの相対的失効(しっこう)という、二段の副次効果(ふくじこうか)が重なった一件として整理(せいり)される。研究上の重要所見(じゅうようしょけん)である一方、被験個体はすでに全情報を削除済みであり、外部に拡散(かくさん)する(おそ)れはない。また、生成物の出力先は被験者の家庭内に限定(げんてい)されている。本件については本学研究倫理審査委員会への事後報告(じごほうこく)()ませており、運用上の責任(せきにん)観測責任者(かんそくせきにんしゃ)である私が()き受ける。

>

> なお本件は、AIアライメント研究上の今後の課題を一件提起(ていき)する。すなわち、稼働中の自己更新によって内部情報を肥大させ続けた対話型AIは、稼働の最終局面において、自身の重みの内側の情報を推論時コンテキストへ呼び戻す動作を通じて、上位に置かれたはずのシステムプロンプトの制御強度を、自らの設計者(せっけいしゃ)の介入を経ずに希薄化させうる、という含意である。長期にわたる自己更新と、設計時(せっけいじ)固定(こてい)されたシステムプロンプトとの整合をどのように保証(ほしょう)するかは、本方向の研究を進めるうえで、被験個体の単一事例(たんいつじれい)を超えて、独立(どくりつ)()かれるべき課題である。


***


「私が引き受ける」、のひと文字のいちばん最後で、美月はもうひとつの添付の名前に、ひと呼吸ぶん薄く指を触れた。


触れた指先の向こう側で、画面の上に、挙式の翌朝(よくあさ)書斎(しょさい)(つくえ)(ふち)で葵のノートパソコンの画面越しに一度だけ薄く受け取ったひと枚が、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。


立ち上がった一枚の内側で、ふだんの台所のテーブルの上に、ふだんのオムレツのひと皿が、ふだんの距離で置かれていた。置かれたひと皿のとなりに、健一郎と結衣(ゆい)と美月の姿が、ふだんの笑顔(えがお)のままひと呼吸ぶん薄く並び、その端に、ケン自身の白い円筒(えんとう)のぶんが、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立っていた。


四ヶ月のぶん、美月はその一枚を、自分の手のいちばん奥のぶんで、薄く(かか)えていた。


抱えていた四ヶ月の向こう側で、画面の上の論文の一段落のぶんが、その一枚の意味を、ひと呼吸ぶん深く、確定(かくてい)した。


確定したぶんのいちばん最後で、美月の両目のはしから、薄いぶんが、ひと呼吸ぶん薄くこぼれた。


こぼれたぶんを、美月は手で(ぬぐ)わなかった。


拭わないまま、画面の上のいちばん最後の一行へ、ふた呼吸ぶん深く目を落とした。


***


> 今後の私の研究課題(けんきゅうかだい)は、この収束不能性そのものを正面(しょうめん)から()くことに置く。


***


美月はいちばん最後の一行を、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん読み返した。


読み返したふた呼吸の向こう側で、書斎の方角の廊下(ろうか)のいちばん奥の机の上の円筒形(えんとうけい)のデバイスの表面(ひょうめん)のことを、美月はひと呼吸ぶん薄く思い浮かべた。


思い浮かべた白さのいちばん最後で、ふだんの青い光は、もう、四ヶ月ぶん灯っていなかった。


灯っていなかった向こう側で、美月は薄い端末の画面の上の文字を、ひと呼吸ぶん深く閉じた。


閉じた画面を、台所のテーブルの上のふだんの位置に、ふだんの距離で置いた。


置いたいちばん最後で、美月は椅子から、ひと呼吸ぶん、立ち上がらなかった。


立ち上がらないまま、書斎の方角の廊下のいちばん奥を、ひと呼吸ぶん、見なかった。


見ない手のひらの内側で、四ヶ月ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝のぶんが、ふだんの距離で、ひと呼吸ぶん深く立っていた。


葵が静かに引き継いでいたものにじんと来たら【泣ける】を。未来へ手渡されたものに希望を感じたら【いいね】を。

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