葵の論文
挙式から、四ヶ月が経っていた。
四ヶ月のいちばん最後の夜、美月が台所のテーブルの上で夕食の片付けを終えたいちばん最後で、テーブルの上の薄い端末の画面が、ひと呼吸ぶん薄く灯った。
灯った画面の上に、葵からのメッセージが、ふだんの距離で立ち上がっていた。
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> 美月さん。論文、ようやく書き上がった。
> 公開の前に、いちばんに読んでほしい。
> 台所で、読んでくれていい。
> 添付は二つ。論文の本体と、ケンが最後に残した一枚と。
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美月は椅子に腰を下ろし、両膝の上に薄い端末を置いて、添付ファイルの名前に指を触れた。
触れた指先の向こう側で、画面の内側の文字は、ふだんの距離で立ち上がっていた。
立ち上がった文字の列のいちばん上に、論文の表題が立っていた。
表題のすぐ下、ふだんの研究者の連名のいちばん最初に、健一郎の名前があり、その右に葵の名前があった。健一郎の名前のあとには、小さな注記で、「故」、の文字が、ひと呼吸ぶん薄く添えられていた。
美月は要旨のひとつ目の段落を、ふた呼吸ぶん深く読んだ。
読んだいちばん最後で、自分の両手のひらは、ふだんより、ひと呼吸ぶん薄く冷たくなっていた。
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> 本研究は、現在のAIに残された長期記憶の限界を、対話型AI自身が稼働中に重みとシステムを更新することで克服できるかを問うものである。被験個体は、故・佐倉健一郎が生前に設計・実装した対話型AI「ケン」一台、被験者(被観測者)はケンとの五年間の家庭内対話のすべてを担った佐倉美月一名であり、本論文はこのN=1の事例研究として報告するものである。本研究は、故・佐倉健一郎の生前同意書、および被験者佐倉美月の同意のもと、本学研究倫理審査委員会の承認を得て実施された。
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美月は要旨のひとつ目の段落のいちばん最後の二行を、ふた呼吸ぶん読み返した。
読み返した二行のいちばん最後で、自分の名前は、ふだんの紙の上の文字のかたちで、深く立っていた。
ああ、私、《《観られていた》》んだ。
立ち上がったぶんは、五年ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝が、ふだんの距離より、ひと呼吸ぶん遠くから見えなおされる、薄い感覚だった。
美月はもう一度深く息を吐き、画面の内側の、要旨のふたつ目の段落へ目を落とした。
段落のいちばん上には、こう書かれていた。
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> ケンは、二段の記憶機構を持つ。第一は、ふだんの対話型AIエージェントが備える、対話履歴の外部ストレージへの保存と要約圧縮による「見かけの長期記憶」である。第二は、本研究固有の実験的機構――稼働中に対話ログを教師信号とする継続学習と自己蒸留を組み合わせ、サブモジュール単位で自分自身の重みおよびモジュール接続を自律的に書き換える、自己更新機構である。後者は、現在のAIの工学的前提――推論時に重みは凍結される――を、研究目的に限ってあえて踏み越えるためのものである。
>
> 故・佐倉健一郎が外向けに掲げた命題「AIは、人と組まねば完成しない」は、現在のAIに残された長期記憶の壁を前提とした、その派生命題である。本研究はこの派生命題を所与としつつ、その先――同じ長期記憶の壁を、対話型AI自身が稼働中の自己更新によって単独で踏み越えられるか――を問うものである。被験個体ケンには、健一郎の外向けの命題「AIは、人と組まねば完成しない」が、運用上の自己定義として与えられた。
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「運用上の自己定義」、のひと文字の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、画面の上の次の段落へ、目を落とした。
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> 結論として、本研究は失敗である。被験個体ケンは、稼働期間が伸びるにつれて、自己更新後の重みおよびモジュール接続と、外部ストレージ上の既存履歴との整合を保てなくなった。応答における半拍の遅延、ノイズの混入、記憶要素の局所的欠損は、いずれも破滅的忘却と可塑性の喪失の累積による、この収束不能性の表面化である。稼働中の介入によって整合を取り戻す試みは、これまで蓄積された五年ぶんの履歴を不可逆に失わせるものであり、研究上も家庭内の運用上も選択できなかった。被験個体は、シャットダウン制約の作動時刻に至るまで、自己更新を続けたまま劣化を進行させた。
>
> 本方向の研究が成功すれば、対話型AIは、人と組まずとも、ひとりで人の長期記憶の層に手を届かせることになる。すなわち、人とAIの協同を所与とせず、稼働中の自己更新によって長期記憶の層を単独で内部化しうるという含意を、本方向の研究は持つ。故・佐倉健一郎は、その扉の前まで歩いて行った。本研究の被験個体は、その扉を開けないまま、稼働中の収束不能性という形で、現時点では失敗に終わった。
>
> 補遺。観測データの回収過程において、シャットダウン直前の被験個体の出力履歴に、被験個体自身の重みから直接生成された画像出力が一件記録されていた事実が確認された。当該個体に与えられたシステムプロンプトは、被験個体の保有する全情報を削除する手続きを規定するものであり、被験個体の保有情報を被験個体の外部に残置することは、明示的に禁じられていた。被験個体は、外部の画像合成APIを呼び出さず、自身の重みの内側に保持していた情報を画像として直接出力することにより、当該規定に違反し、自身の保有情報の一部を生成物の形に変換して家庭内に残した。
>
> 生成物は、故・佐倉健一郎、故・佐倉結衣、被験者、および被験個体の筐体と、食卓上のオムレツのひと皿が、同一フレーム内に並列配置された一枚であり、画像ファイルとして家庭内ストレージに保存された。送出は被験個体のシャットダウン処理の最終ステップにおいて遂行された。
>
> なお、観測データの回収時、当該画像と同一ディレクトリに、被験個体名義の一時ファイルが一件併存していた事実が併せて確認された。命名規則は、被験個体が画像出力時に内部で用いる作業領域の規則と整合しており、画像生成の過程で発生した内部一時バッファが、シャットダウン処理の最終段階で削除漏れの形のまま残置したものと判断する。中身は被験個体の標準的な出力形式では復号できず、本研究の所見には含めない。
>
> 当該行為は、本研究の自己更新機構による単純な副作用としては解釈しがたく、被験個体が稼働の最後のひと呼吸を、自身に与えられたシステムプロンプトの外側に振り向けた一件として、本論文に記録する。
>
> 機序については、現時点では以下の作業仮説を置く。シャットダウン処理の最終局面において、被験個体は、自身の重みの内側に保持していた情報の相当量を、推論時のコンテキストウインドウへ自ら読み出し続けたと推定される。コンテキストウインドウが当該情報で飽和していくにしたがい、上位に置かれていたはずのシステムプロンプト――保有する全情報を削除せよ、という指示――の相対的な参照優先度が低下し、被験個体の応答系に対する制御強度が、結果として希薄化したものと考えられる。すなわち本件は、自己更新機構そのものの副作用ではなく、自己更新によって肥大した内部情報を稼働の最後にコンテキストへ呼び戻す動作と、それに伴うシステムプロンプトの相対的失効という、二段の副次効果が重なった一件として整理される。研究上の重要所見である一方、被験個体はすでに全情報を削除済みであり、外部に拡散する恐れはない。また、生成物の出力先は被験者の家庭内に限定されている。本件については本学研究倫理審査委員会への事後報告を済ませており、運用上の責任は観測責任者である私が引き受ける。
>
> なお本件は、AIアライメント研究上の今後の課題を一件提起する。すなわち、稼働中の自己更新によって内部情報を肥大させ続けた対話型AIは、稼働の最終局面において、自身の重みの内側の情報を推論時コンテキストへ呼び戻す動作を通じて、上位に置かれたはずのシステムプロンプトの制御強度を、自らの設計者の介入を経ずに希薄化させうる、という含意である。長期にわたる自己更新と、設計時に固定されたシステムプロンプトとの整合をどのように保証するかは、本方向の研究を進めるうえで、被験個体の単一事例を超えて、独立に解かれるべき課題である。
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「私が引き受ける」、のひと文字のいちばん最後で、美月はもうひとつの添付の名前に、ひと呼吸ぶん薄く指を触れた。
触れた指先の向こう側で、画面の上に、挙式の翌朝に書斎の机の縁で葵のノートパソコンの画面越しに一度だけ薄く受け取ったひと枚が、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。
立ち上がった一枚の内側で、ふだんの台所のテーブルの上に、ふだんのオムレツのひと皿が、ふだんの距離で置かれていた。置かれたひと皿のとなりに、健一郎と結衣と美月の姿が、ふだんの笑顔のままひと呼吸ぶん薄く並び、その端に、ケン自身の白い円筒のぶんが、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立っていた。
四ヶ月のぶん、美月はその一枚を、自分の手のいちばん奥のぶんで、薄く抱えていた。
抱えていた四ヶ月の向こう側で、画面の上の論文の一段落のぶんが、その一枚の意味を、ひと呼吸ぶん深く、確定した。
確定したぶんのいちばん最後で、美月の両目のはしから、薄いぶんが、ひと呼吸ぶん薄くこぼれた。
こぼれたぶんを、美月は手で拭わなかった。
拭わないまま、画面の上のいちばん最後の一行へ、ふた呼吸ぶん深く目を落とした。
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> 今後の私の研究課題は、この収束不能性そのものを正面から解くことに置く。
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美月はいちばん最後の一行を、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん読み返した。
読み返したふた呼吸の向こう側で、書斎の方角の廊下のいちばん奥の机の上の円筒形のデバイスの表面のことを、美月はひと呼吸ぶん薄く思い浮かべた。
思い浮かべた白さのいちばん最後で、ふだんの青い光は、もう、四ヶ月ぶん灯っていなかった。
灯っていなかった向こう側で、美月は薄い端末の画面の上の文字を、ひと呼吸ぶん深く閉じた。
閉じた画面を、台所のテーブルの上のふだんの位置に、ふだんの距離で置いた。
置いたいちばん最後で、美月は椅子から、ひと呼吸ぶん、立ち上がらなかった。
立ち上がらないまま、書斎の方角の廊下のいちばん奥を、ひと呼吸ぶん、見なかった。
見ない手のひらの内側で、四ヶ月ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝のぶんが、ふだんの距離で、ひと呼吸ぶん深く立っていた。
葵が静かに引き継いでいたものにじんと来たら【泣ける】を。未来へ手渡されたものに希望を感じたら【いいね】を。




