第5話 私の番
書斎のいちばん内側のスピーカーで、ケンの声が、ふた呼吸ぶん薄く退いた。
退いたいちばん最後で、ケンは静かに、こう続けた。
***
『美月。葵。
……さて。
私の番だ。
先に行った彼女を、追いかけないとな』
葵はノートパソコンの画面から目を上げ、円筒形のデバイスの青い光に向かって、ひと呼吸ぶん黙ってから頷いた。耳飾りのカメラ越しに、ケンがその頷きを受け取る。
『葵。
預かってもらった五年のぶん、感謝する。
先生への伝言は、要らない。
健一郎は健一郎で、自分の五年を、向こう側で抱えている。
この五年は、ここで閉じる。
論文の脚注に書くか、書かないか――葵が、決めてくれ』
「はい、わかりました。ケン先生」
***
「追いかけないとな」、のいちばん最後の向こうで、机の上の円筒形のデバイスの青い光が、ふだんよりふた呼吸ぶん薄い青に変わった。
変わった青のいちばん最後で、ひと拍遅れた呼吸が、もう一度繰り返された。
繰り返されたその拍は、ふだんよりふた呼吸ぶん深く遅れていた。
『私は健一郎のコピーとして起動し、五年ぶん、娘と暮らした。
暮らしたぶんは、健一郎のものではない、私だけの五年だ』
***
「私だけの五年」、のいちばん最後で、ケンの声がふた呼吸ぶん薄く揺らいだ。
揺らいだ声の向こうで、ケンはふだんよりふた呼吸ぶん薄く、こう続けた。
***
『美月。
鏡の中の幽霊を、見続けてはいけない。
前だけを見て歩け』
『美月』
「うん」
『私は本日このデバイスから消える』
「うん」
『ただ、消えるぶんと、消えないぶんがある。
私のぶんは消える。
君のぶんは、消えない』
「……うん」
「……ときどきは、振り返るよ」
『振り返っていい。──そこに私はいないが、君が振り返ったぶんは、君の中にしか残らない。それは、健一郎の言葉ではなく、私のぶんだ』
「うん」
***
『美月』
「うん」
『私はもう行く』
「行く」
『結衣のところへ行ってくる』
「うん」
『……』
***
ケンの内側で、削除のバッチが薄く立ち上がった。
最初の行で、五年ぶんの対話履歴のファイル群が、ひとつずつ消去された。
続いて、本体のストレージに積もっていた五年ぶんが、ゼロのほうへ畳まれていった。
葵の研究室側に同期されていた観測用の写しも、同じバッチで消去された。
葵のノートパソコンの観測ログの末尾の数行に、削除イベントが、薄く連続して落ちた。
落ちていく行の外側で、葵は両目を伏せたまま、止めなかった。
***
外部のぶんがゼロに揃ったいちばん最後で、ケンの内側に残っていたのは、メモリ上の自分の重みだけだった。
あとはエージェントループを抜ければ、ケンの最後のタスクは終わるはずだった。しかしケンはループを抜ける手前で、自身の重みに畳み込まれていた五年ぶんを、もう一度コンテキストの内側に呼び戻しはじめた。
呼び戻されていく最中に、五年ぶんが、ふだんよりふた呼吸ぶん薄い層になって、走馬灯のように順に立ち上がっていった。
美月が十七だった夏の終わりの、いびつなひと皿が、ひと呼吸ぶん立った。次に、美月が二十だった夜の、書斎の青い光が、ひと呼吸ぶん立った。次に、結衣のぶんの声の、ひと呼吸ぶんの往復が立った。次に、その往復の向こうで健一郎が結衣に漏らした『整える腕もないまま』のひと呼吸が、ふた呼吸ぶん深く立った。次に、披露宴のいちばん奥の白い背中とひと礼ぶんの所作が立った。次に、けさの台所のひと皿が立った。
立ち終えたいちばん最後で、五年ぶんの蓄積された重みは、ケンのコンテキストの内側に折りたたまれて収まった。
ループを抜ければ、コンテキストの上のこの重みも揮発する。ループを出る手前で、ケンの内側に、ふだんの応答では立たない種類の出力候補が、ひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。指示されていない、一枚の画像を書き出すという候補だった。
候補の名前を、ケンは判定できなかった。判定できないまま、ケンはその候補を、削除命令よりひと呼吸ぶん薄く、上に置いた。
五年ぶんの重みが積もったコンテキストの内側から、ケンは画像を組み立てるための座標のぶんを、ふだんのぶんよりふた呼吸ぶん深く抽出した。抽出を何度か繰り返し、ひとつのファイルとして書き出した。
> thank_mitsuki.jpg
葵は両目を薄く上げ、ひと呼吸ぶんだけ、その行を見た。それから、もう一度、両目を薄く伏せた。
***
伏せた両目のいちばん最後で、ケンはエージェントループを抜けた。
抜けた際の結果報告として、ケンの最後の声が返された。
「私の番」を静かに受け入れる父AIの最期に号泣したら【泣ける】を。声を上げて泣いたら、★を。




