第2話 四個の卵
書斎の机の縁の薄い樹脂のケースを、美月は開けた。
五年前のあの夕方からずっと使ってきた細い耳飾りが、ふだんの位置に収まっていた。
耳に掛けた。
右の耳の奥で、骨を通る振動の気配が、ふだんよりひと呼吸ぶん薄く灯った。
***
美月は台所に立ち、流しの横のボウルを出した。ゆうべ洗って伏せて置いたぶんのボウルの内側は、乾いて朝の薄明かりを入れていた。
冷蔵庫から卵のパックを取り出し、いちばん左のひとつを指で押さえた。指先のざらつきは、ふだんと同じだった。確かめてから、美月はその卵をボウルのふちに軽く当てた。
殻の亀裂が、ボウルの内側に走った。白身と黄身が、最後のひと滴まで落ちた。殻はシンク横の空き缶に置いた。
ボウルの内側の卵の黄身は、朝の薄明かりに薄く照らされていた。
***
「父さん。ひとつ目、迷わなかった」
『ああ、迷わなかった』
二個目、三個目、四個目を、続けて取った。
ボウルのふちに、ひと呼吸ぶんずつ軽く当てていった。
当てたふちの向こう側で、三つの卵が、迷わずに落ちた。
***
「父さん。四個、割った。迷わなかった」
『迷わなかった』
「殻、ひとつも混ざらなかった」
『混ざらなかった』
「うん」
四個の卵を菜箸でほぐし、ふだんよりひと粒多い塩、生クリーム大さじ一、シュレッドチーズをふだんよりふた呼吸ぶん多く加えた。
***
『美月。最後の一皿の評価関数を、ひとつだけ確かめさせてくれ』
「うん」
『五年前から、耳飾りのカメラと君の口頭の感想を、私は積んできた。今朝はそれを使う。──君ひとりの谷だ』
「うん」
『初期点は、私から提案させてくれ。──君が、五歳の朝に「世界一」と言った、あの一皿だ』
「──あの日の」
『あの日の。父さんが、焦げを隠すためにチーズを入れすぎた、失敗作の方だ』
「うん」
「父さん。あの皿から、ほんの半歩ぶん、ずらしていい」
『どこへ』
「銀杏亭の半年の手のぶん。私が、あの五歳の舌の上に、五年かけて重ねたぶん」
『──分かった。半歩ぶん、ずらす』
『ずらした初期点から、君ひとりの谷に降りた底を、ひと組だけ言う。摂氏百八十五度、バター十グラム、塩一・〇グラム、生クリーム大さじ一、チーズ二十グラム、撹拌一秒に四回』
「──対決の夜と、ほとんど同じだ」
『ほとんど同じだ。五年経って、君の谷は、あの夜の二人ぶんの合成の谷の、すぐ近くに立っている』
「うん」
塩は、もう先に、ボウルの中に落ちていた。ケンが言った一・〇グラムより、ひと粒、多かった。それは、私が決めた。
『ただ、チーズだけは、君ひとりの谷では、ふだんよりふた呼吸ぶん多い方が、底が深い。十グラム足して、三十グラムだ』
「ふた呼吸」
『私の推奨関数だ。君の判定を優先する設計は、変えていない』
***
「父さん。チーズ、ふた呼吸ぶん多くした。父さんの推奨どおり」
『ふた呼吸』
「父さん。最後の朝まで、私の判定を優先させる設計、残してた」
『残していた』
***
フライパンをコンロの上に置いた。耳飾りのカメラ越しに、ケンが底の温度を読む。
『いま、二十二度の見当だ。百二十度まで待つ』
「待つ」
やがてフライパンの底に、空気の薄い揺らぎが立った。
『百二十度。バターを置く。十グラム』
「十」
十グラムのバターを、底のいちばん真ん中に置いた。バターはすぐに弾け、薄く泡立ちはじめる。
『泡が細かいぶんに切り替わった。百八十五度。卵液を入れる』
「うん」
美月はボウルの卵液を、フライパンの上に流し込んだ。底の上で薄く広がり、薄い白い膜が立ち上がる。膜の外側を菜箸で内側に押し込むと、半熟の層が薄く揺れた。
***
「父さん。いま、端、焦がす」
『私の判定では、焦がさない』
「焦がす。私が決める。これが、最後の一手」
『──最後の一手だ』
「うん」
***
美月はフライパンの外側のふちを、コンロの火の上でひと呼吸ぶん留めた。ふちは二度、薄く焦げた色に変わる。あの対決の皿のふちと同じ色だった。
火から外し、フライパンを皿の上に傾ける。卵は皿の内側に滑り落ち、ふだんの形に収まった。外側のふちには、薄い焦げの色がはっきりと立っている。その内側から、チーズが薄く滲んでいた。
***
「父さん。焼けた。四個ぶん、ひと皿になった」
『ひと皿になった』
「ふた呼吸ぶん迷わなかった」
『ああ。迷わなかった』
美月が割る四個の卵の意味にじんと来たら【泣ける】を。その手つきを見守って、★をひとつ。




