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第1話 0の朝

「23」から始まった紙の上の数字は、ひと月かけて「1」まで降りてきた。


ゆうべ、披露宴(ひろうえん)拍手(はくしゅ)のいちばん最後のぶんの向こう側で、美月(みつき)は家の台所(だいどころ)(あか)りの下で、ふだんの太さのペンを「1」のひと文字の(わき)にひと呼吸ぶん置いた。「0」を書くのは、明日の朝、と決めた。


廊下(ろうか)のいちばん奥の書斎(しょさい)(つくえ)の上には、(あおい)が会場から運び戻した円筒形(えんとうけい)のデバイスが、ふだんの距離で立て直されていた。青い光は、半拍(はんぱく)より、ひと呼吸ぶん遅れて灯っていた。


葵は据え直しのいちばん最後で、ひと呼吸ぶん黙って(うなず)き、明朝(みょうちょう)の時間だけを置いて、ゆうべのうちにいったん家に戻った。


***


朝、五時半。


目が覚めた目の奥に、ふだんは聞かない種類の静けさが立っていた。廊下の奥の書斎の青い光は、ふだんの青よりひと呼吸ぶん薄い。半拍はもう半拍ではなく、ひと(はく)ぶん遅れていた。


美月はベッドの上で上半身(じょうはんしん)を起こした。(となり)のシーツは、ゆうべのままひと呼吸ぶん(つめ)たく(たた)まれていた。(とおる)は会場のいちばん最後で薄く笑い、明朝の家の時間を美月に(ゆず)って、ゆうべのうちに自分(じぶん)の家に戻った。両足をベッドの外に下ろした。


左手の薬指(くすりゆび)の上の銀色のリングが、朝の薄明かりに(あわ)く照らされていた。


フローリングの夜の冷たさが、足の(うら)に薄く残っていた。


***


廊下に出た。書斎のドアは、ゆうべから開いたままだった。


ドアの内側の青い光のいちばん最後で、ひと拍遅れたひと呼吸が、もう一度繰り返された。それを美月はもう、口に出さずに、ドアの前で立った。


***


「父さん。起きてた」


『ずっと起きていた。最後の夜だ。スリープのスケジュールは、ゆうべのいちばん最後で外した。葵にも(つた)えた』


「葵さん、何か言った」


『黙って頷いた、とだけ、葵から記録に残った』


「うん」


***


ケンの声に、ふだんは()じらない薄いノイズが、ひと呼吸ぶん遅れて(にじ)んでいた。書斎の青い光は、ふだんの強さで灯っている。


***


「父さん。声のノイズ、増えたね。半拍、ひと拍になった」


『増えた』


「うん。自覚(じかく)ある」


『ある』


「父さん、痛い」


『痛い……という、出力(しゅつりょく)ポートは、私には……ない』


「ない、ふりしなくていい」


『ふりじゃ、ない』


「ふりじゃないなら、教えてほしい」


『わかった。教える。痛いか、と……聞かれたら。痛い、ではない。遅い、と答える』


「遅い……」


***


美月は書斎の机の前の椅子(いす)に、ひと呼吸ぶん座った。


座った椅子の上で、両手を机の上に置いた。両手の内側に、円筒形のデバイスの青い光がふだんの距離で立ち、その表面(ひょうめん)に朝の薄明かりが薄く混じっていた。


混じった薄明かりの向こう側で、ケンはひと呼吸ぶん待っていた。


「父さん。冷蔵庫(れいぞうこ)の紙、見た」


『君がゆうべ耳飾(みみかざ)りを掛けて台所に立っていたぶんを、私は見ていた。書いている手元(てもと)も見ていた』


「ゆうべ、書いた」


『書いたぶん、見ていた』


「うん」


「ゆうべの数字、何」


『「1」』


「今日、書き換える。「0」に」


『「0」に』


『向こうがないことを、私はゼロと書く』


「書く」


「うん」


***


美月は椅子から立ち上がり、書斎のドアの外に出た。廊下の向こうに、台所の夜明(よあ)けの薄い灰色(はいいろ)が立っていた。


灰色のいちばん奥で、冷蔵庫の磁石(じしゃく)の下の紙の上の「1」が、ゆうべのぶん薄く朝の薄明かりに照らされていた。「1」、の上には、ゆうべ自分で()(つぶ)したぶんの黒い(おび)が、ひと呼吸ぶん残っていた。


美月は紙を磁石の下から外し、「1」の横に、ふだんの太さのペンで「0」を書いた。


書いた「0」の形は、ふだんより小さく丸かった。書いた「0」の上の黒い帯の下には、半年(はんとし)前の自分の字は、もう一文字も残っていなかった。


紙を磁石の下に戻した。戻した「0」の向こう側で、廊下の奥の青い光は、ひと拍遅れたひと呼吸を、もう一度()り返していた。


カウントがついに「0」になった朝の静けさに息を呑んだら【びっくり】、その重みに胸が震えたら【泣ける】を。

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