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父のAI〜『泣くのは五分間だけだ』──父の声をしたAIが、葬儀の翌朝、私に告げた。〜  作者: 冬野 結
結婚式当日

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第2話 家を出る

浴室(よくしつ)を出て、寝室(しんしつ)に戻った。


ベッドの脇(わき)に、ゆうべのうちに詰(つ)めた支度(したく)バッグが置かれていた。


口を開(あ)けると、控室(ひかえしつ)で直(なお)すぶんのネイルの小瓶(こびん)と、目薬(めぐすり)と、替(か)えのインナーが、ふだんの並(なら)びで入っていた。ドレスとヘアメイクは、式場(しきじょう)の控室で入ることになっている。


下のインナーだけ式のぶんに替(か)えて、上はジャケットとシャツに着替(きが)えた。昨日(きのう)塗(ぬ)ったネイルの右の薬指(くすりゆび)の先が、ひと呼吸(こきゅう)ぶん欠(か)けていた。控室で直してもらう、と決めた。


左の薬指の銀色(ぎんいろ)のリングは、朝の白さに照(て)らされていた。


支度バッグを片手(かたて)に提(さ)げると、中の小瓶が薄(うす)く鳴(な)った。寝室のドアを閉(し)めた。


廊下(ろうか)のいちばん奥(おく)で、書斎(しょさい)のドアは開(あ)いたままだった。内側で、円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光が灯(とも)っていた。


***


支度バッグを、玄関(げんかん)の土間(どま)の横の椅子(いす)の上に置いた。玄関のドアの外で、透(とおる)の車のエンジンの音が、ひと呼吸ぶん立っていた。


***


廊下のいちばん奥の書斎のドアの前(まえ)まで戻った。


ケンの青い光は、灯ったまま、待(ま)っていた。


「父さん。行ってくる」


『行ってくる』


「うん。家、出る前の段取(だんど)り、ぜんぶ葵さんに預(あず)けた。父さん、披露宴(ひろうえん)で何か話す?」


『……話す』


「いつ決めた?」


『ゆうべのいちばん最後で決めた』


「父さん、原稿(げんこう)ある?」


『原稿はない。ないぶんで話す』


美月は書斎のドアの内側に半歩(はんぽ)入った。机(つくえ)の上の円筒形のデバイスの表面(ひょうめん)に、自分の影(かげ)が薄く映(うつ)った。


美月は両手(りょうて)を、左の薬指の銀色のリングの上に添(そ)えた。リングは、ケンの青い光に照らされていた。


***


「父さん。わたし家を出る」


『夕方(ゆうがた)、控室でまた会(あ)おう』


「父さん」


『美月(みつき)』


「……」


「行ってきます」


『行ってきなさい』


美月は書斎のドアを、半分まで閉めた。


ひと言も口に出さず、玄関の土間まで戻った。


***


土間の上でローファーを履(は)き、支度バッグをもう一度片手に提げて、玄関のドアを開けた。


運転席(うんてんせき)の透が、こちらを見た。朝の空気(くうき)は、白く立っていた。


「美月。お父さんに行ってきます、言いましたか」


「言った」


「お父さん、なんて言ってましたか」


「『行ってきなさい』って」


「いつものお父さんですね」


「うん。いつものお父さんだった」


美月は支度バッグを、後部座席(こうぶざせき)に置いた。玄関のドアを、外側から押(お)した。


廊下のいちばん奥で、書斎の半分閉(し)まったドアの内側の青い光が、灯っていた。冷蔵庫のドアの紙の「1」のひと文字は、朝の白さに照らされていた。


***


玄関のドアが、外側で閉じた。


助手席(じょしゅせき)に座(すわ)り、ベルトを引(ひ)いた。車は走(はし)り出した。


家の書斎の青い光は、もう見えない向こう側で、ふだんの強さで灯(とも)り続(つづ)けていた、はずだった。


父と暮らした家を出ていく、その一歩にじんと来たら【泣ける】を。見送る気持ちで★を。

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