第2話 家を出る
浴室を出て、寝室に戻った。
ベッドの脇に、ゆうべのうちに詰めた支度バッグが置かれていた。
口を開けると、控室で直すぶんのネイルの小瓶と、目薬と、替えのインナーが、ふだんの並びで入っていた。ドレスとヘアメイクは、式場の控室で入ることになっている。
下のインナーだけ式のぶんに替えて、上はジャケットとシャツに着替えた。昨日塗ったネイルの右の薬指の先が、ひと呼吸ぶん欠けていた。控室で直してもらう、と決めた。
左の薬指の銀色のリングは、朝の白さに照らされていた。
支度バッグを片手に提げると、中の小瓶が薄く鳴った。寝室のドアを閉めた。
廊下のいちばん奥で、書斎のドアは開いたままだった。内側で、円筒形のデバイスの青い光が灯っていた。
***
支度バッグを、玄関の土間の横の椅子の上に置いた。玄関のドアの外で、透の車のエンジンの音が、ひと呼吸ぶん立っていた。
***
廊下のいちばん奥の書斎のドアの前まで戻った。
ケンの青い光は、灯ったまま、待っていた。
「父さん。行ってくる」
『行ってくる』
「うん。家、出る前の段取り、ぜんぶ葵さんに預けた。父さん、披露宴で何か話す?」
『……話す』
「いつ決めた?」
『ゆうべのいちばん最後で決めた』
「父さん、原稿ある?」
『原稿はない。ないぶんで話す』
美月は書斎のドアの内側に半歩入った。机の上の円筒形のデバイスの表面に、自分の影が薄く映った。
美月は両手を、左の薬指の銀色のリングの上に添えた。リングは、ケンの青い光に照らされていた。
***
「父さん。わたし家を出る」
『夕方、控室でまた会おう』
「父さん」
『美月』
「……」
「行ってきます」
『行ってきなさい』
美月は書斎のドアを、半分まで閉めた。
ひと言も口に出さず、玄関の土間まで戻った。
***
土間の上でローファーを履き、支度バッグをもう一度片手に提げて、玄関のドアを開けた。
運転席の透が、こちらを見た。朝の空気は、白く立っていた。
「美月。お父さんに行ってきます、言いましたか」
「言った」
「お父さん、なんて言ってましたか」
「『行ってきなさい』って」
「いつものお父さんですね」
「うん。いつものお父さんだった」
美月は支度バッグを、後部座席に置いた。玄関のドアを、外側から押した。
廊下のいちばん奥で、書斎の半分閉まったドアの内側の青い光が、灯っていた。冷蔵庫のドアの紙の「1」のひと文字は、朝の白さに照らされていた。
***
玄関のドアが、外側で閉じた。
助手席に座り、ベルトを引いた。車は走り出した。
家の書斎の青い光は、もう見えない向こう側で、ふだんの強さで灯り続けていた、はずだった。
父と暮らした家を出ていく、その一歩にじんと来たら【泣ける】を。見送る気持ちで★を。




