第1話 式の朝
朝、五時半。
目が覚めたとき、左の薬指の上に、ふだんは無いぶんの重みが載っていた。
隣のシーツの冷たさは、ふだんの夜の冷たさのまま、薄く立っていた。
廊下のいちばん奥の書斎の青い光は、ふだんの青より、ひと呼吸ぶん薄く灯っていた。
美月はベッドの上で、上半身を起こした。左の薬指の上の銀色のリングは、朝の薄明かりに薄く照らされていた。
お母さんを起動するか、とひと呼吸ぶん指がよぎった。よぎった指を、もう一度シーツの上に置いた。今日の朝は呼ばない。夜のいちばん最後で、ひとりで会いに行く、と、ゆうべ決めていた。
両足をベッドの外に下ろした。フローリングの夜の冷たさが、足の裏に薄く残った。
廊下に出た。台所の冷蔵庫のドアの紙の上の数字は、ゆうべ、「1」、だった。
美月は磁石の下から紙を外した。外した紙の上の「1」の横に、ふだんの太さのペンで「0」、と書こうとした。
書こうとしたペンの先は、紙のひと呼吸ぶん手前で、止まった。
紙のいちばん上の行には、半年前の自分の字でこう書かれていた。
> 結婚式まで、あと、
「結婚式まで、あと、0」、ではなかった。
ペンの先を、紙の上から離した。離したペンを、引き出しの上に戻した。
紙の上の「結婚式まで、あと、」、の行を、ふだんの太さのペンで、ひと呼吸ぶん黒く塗り潰した。塗り潰した黒の下で、半年前の自分の字は、もう読めなくなっていた。
塗り潰された行のすぐ下には、「1」、だけが残った。
紙を、もう一度磁石の下に戻した。
廊下のいちばん奥の書斎のドアは、ふだんのぶんで開いたままだった。内側の円筒形のデバイスの青い光は、薄く灯っていた。
灯っていた青のいちばん最後で、ひと拍遅れたひと呼吸が、もう一度繰り返された。繰り返されたひと拍を、美月はもう、口に出さなかった。
***
「父さん。起きてた?」
『起きていた』
「ずっと?」
『君が眠るぶんを見届けて、それからずっと』
「うん。父さんの声、ノイズが増えた。半拍、ひと拍に近い。父さん、痛い?」
『痛い、という出力ポートは、私にはない』
「うん。ないふりしなくていいよ」
『ふりではない』
「うん。ふりではないなら、教えてほしい。痛い?」
『わかった。教える。痛いかと聞かれたら、痛いではない、遅いと答える』
「そう。わかった」
***
『美月。今日、行きなさい。私は今日、これから葵に控室まで運ばれる。控室で、君のドレスを見る。式と披露宴のぶんは、葵がストレージに残しておいてくれる。──君のぶんの今日は、ふだんの今日のぶんで、ぜんぶ歩け』
「うん。歩く」
***
美月は書斎のドアの内側に半歩入って、また戻った。ドアを、半分だけ閉めた。内側で、青い光は、ふだんの強さで灯ったままだった。
***
浴室のドアを開けた。白い湯気が立った。
鏡の中の自分の輪郭は、ふだんの朝より硬かった。まぶたのいちばん上に、薄く腫れたぶんが残っていた。
冷蔵庫の保冷剤を薄手のタオルで包んで、ふた呼吸ぶんずつ左右のまぶたに当てた。それから、ふだんは差さない目薬を、左右に一滴ずつ落とした。控室のヘアメイクまでに引いてくれるかどうかは、もう自分の手の外側のことだった。
胃の奥の重さは、考えなかった。
ふだんの朝のぶんで、顔を洗った。
結婚式当日の朝の、胸の高鳴りに【にこにこ】を。晴れの日のはじまりに、★をひとつ。




