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第8話 一ヶ月

冷蔵庫(れいぞうこ)のドアの上の磁石(じしゃく)の下の紙の上の数字(すうじ)を、()()えた。


書き換えた数字は、「23」、だった。


書き換えるペンの(さき)(ふと)さは、いつもと同じだった。


同じだった太さのペンで書いた「23」、の(かたち)は、いつもの形より、ほんのわずかに(まる)かった。書く瞬間(しゅんかん)(ゆび)(ちから)がふた呼吸ぶん(ゆる)んでいたからだった。


書斎(しょさい)の青い光は、廊下(ろうか)の向こうから半拍遅れたひと呼吸を、もう一度()(かえ)していた。


スマートフォンを手に取った。


取ったスマートフォンの画面の上で、(とおる)のトークルームをひと呼吸ぶん()けた。


開けた入力欄に、ひと呼吸ぶんこう打った。


> 透。家のこと、式の前に(はな)したいことがある。


打った文字を、ひと呼吸ぶん見つめた。


見つめた文字のいちばん最後の「ある」、のひと文字の上で、人差(ひとさ)し指の(つめ)をひと呼吸ぶん(まよ)った。


迷った爪のいちばん最後で、送信(そうしん)ボタンを()した。


押したボタンの上で、画面の上のメッセージは、透のぶんのトークルームに、ひと呼吸ぶん上がっていった。


上がったメッセージのすぐ下に、透の既読(きどく)(しるし)がひと呼吸ぶん(とも)った。


灯った既読のすぐ下に、透の返信がひと呼吸ぶん灯った。


灯った返信は、こう書かれていた。


> 了解(りょうかい)今夜(こんや)、行く。


「行く」、のいちばん最後のひと文字のすぐ下に、もう一行灯った。


> 何時でもいい。


「いい」、のひと文字の上で、美月(みつき)はひと呼吸ぶん目の(おく)(うす)()じた。


閉じた目の奥のいちばん奥で、ひと呼吸ぶん、ふだんは出さない種類(しゅるい)の薄い(わら)いが、薄く灯った。


灯った笑いを、美月は自分の頭の内側(うちがわ)で、ひと呼吸ぶん()さえた。


押さえたまま、画面を()せた。


伏せた画面を、ダイニングのテーブルの上に置いた。


***


銀杏亭(いちょうてい)の昼の休憩時間(きゅうけいじかん)(うら)勝手口(かってぐち)のいちばん奥の椅子(いす)の上で、須藤(すどう)がひと呼吸ぶん雑誌(ざっし)のページをめくった。


めくったページのいちばん奥の角で、須藤はひと呼吸ぶん、こう(つぶや)いた。


「桐生って人、また出てた」


美月は(たま)ねぎを(きざ)む手を、止めなかった。


「美容院ですか」


「ううん。今度は、駅の売店(ばいてん)(ひろ)った。インタビュー記事」


「そうですか」


「美月ちゃん、()いたことある? その人、いま」


「あります」


「いつもの『シェフはもう要らない』、じゃ、なかったよ」


「……ちがった?」


「ちがったよ。なんか、立ち止まる、みたいなこと、書いてあった。私が読んでも、うまく言えないけど。あの人、いつもと声の(かん)じが、ちがった」


美月は、玉ねぎを刻む手のひと呼吸を、ひと呼吸ぶんだけ、薄く()めた。


止めたひと呼吸のいちばん最後で、手はまたふだんの(はや)さで、玉ねぎの上に(もど)った。


「そうですか」


「うん。それだけ」


須藤はそれ以上、深追いしなかった。雑誌を(たた)み、エプロンの前を(なお)し、ホールの方へ、ひと呼吸ぶん(もど)っていった。


戻っていく須藤の背中(せなか)のいちばん最後で、美月のひと呼吸の内側に、桐生の名前(なまえ)のふた音が、ひと呼吸ぶんだけ、薄く()()がった。


立ち上がったふた音の()こう側で、冷蔵庫(れいぞうこ)のドアの上の磁石(じしゃく)の下の紙の上の「23」、が、ひと呼吸ぶん薄く、頭の内側(うちがわ)に戻ってきた。


戻ってきた「23」、のいちばん最後で、桐生のふた音は、ひと呼吸ぶん薄く、頭の外側(そとがわ)(なが)れていった。


家に帰ってからも、書斎(しょさい)の青い光に向かって、美月はそのふた音を、(たず)ねなかった。


***


「父さん。今夜、透が来る。家のこと、ぜんぶ話す」


『ぜんぶ?』


「父さんのこと、解雇(かいこ)通知(つうち)のこと、式の翌日(よくじつ)止まること」


『ぜんぶ話していい。(かく)してもよかったが、隠さなくていい』


「うん。父さん、透に、自己(じこ)紹介(しょうかい)する?」


『ふた呼吸ぶんする』


「ふた呼吸?」


『「はじめまして」、と「これからよろしく」、でふた呼吸』


「『これからよろしく』、は、いまする台詞(せりふ)?」


『いましかできない台詞だ』


「もう、長くないよ?」


『長くないぶんの「これから」、を、私はよろしくする』


「うん」


***


午後(ごご)、美月は台所(だいどころ)に立った。


立った台所の(なが)しの(よこ)のボウルを、ひと呼吸ぶん()した。


出したボウルの内側に、(たまご)をひとつだけ()った。


割った卵の(から)は、ボウルの(そと)()けられ、ひとつも内側に()ざらなかった。


ボウルの内側の卵の黄身(きみ)を、ひと呼吸ぶん()つめた。


見つめた黄身の上に、何も(くわ)えなかった。


加えないまま、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん立った。


立ったふた呼吸のいちばん最後で、美月はボウルの上に、ひと呼吸ぶんラップをかけた。


かけたラップの上を、てのひらでひと呼吸ぶん()でた。


撫でたラップのまま、ボウルを冷蔵庫の中段(ちゅうだん)に、ひと呼吸ぶん入れた。


入れたボウルの内側の卵は、冷蔵庫の(あか)りの下で、ひと呼吸ぶん黄身の輪郭(りんかく)(たも)ったまま、()かれていた。


「父さん。いま、卵、ひとつ割って、何にもしないで冷蔵庫に入れた。父さん、見てた?」


『見ていた』


「最後の一手(いって)ではない卵だった」


『最後の一手ではない』


「うん」


練習(れんしゅう)の卵。練習でもないかもしれない」


『練習でもない?では、何の卵?』


「分からない」


『分からない卵』


「分からない」


『分からないまま、置いた』


「置いた」


『うん』


()てるのは、料理人(りょうりにん)として、できなかった」


『うん』


ケンはひと呼吸ぶん、間を置いた。


置いたひと呼吸のいちばん最後で、ケンはこう続けた。


『美月』


「うん」


『式のあとに、卵を四個(よんこ)割る朝が来る』


「来る」


『来る』


「うん」


『四個割って、ひと呼吸ぶん迷わない』


「迷わない」


『迷わないこと、いまのひとつ目で確認(かくにん)できた』


「ひとつ目で迷う必要(ひつよう)、あったの?」


『あった』


「うん」


「父さん、それ、ちょっと(やさ)しい答えすぎる」


『優しい?』


「優しい」


『うん』


「父さん、最後のひと月、優しすぎる」


『ふだんも優しい』


「ふだんはずるい」


『ずるくて優しい』


「うん」


***


夜、玄関(げんかん)のチャイムが()った。透の足音(あしおと)は、ふだんよりひと呼吸ぶん慎重(しんちょう)だった。


玄関のドアを開けると、透が立っていた。玄関の灯りの下で美月の(かお)を見て、ひと呼吸ぶん目を()せ、もう一度上げて、こう言った。


「美月さん」


「うん」


「先に、ひとつだけ。今日、ぜんぶ話す、ので、いいですか」


「……いい」


無理(むり)、してませんか」


「してる」


「うん」


「してるけど、透が来てくれたから、いける」


「うん」


透はもうひと呼吸ぶん、玄関の()がり(ぐち)手前(てまえ)()()まった。


止まったひと呼吸の向こう側で、こう(つづ)けた。


「美月さん。お父さん、家、いますか」


「いる」


「お父さんに、ちゃんと言うの、まだでしたよね」


「言ってなかった」


「今夜、言います」


「うん」


「言っていいですか」


「いい」


***


透は(くつ)()ぎ、(そろ)えて靴箱(くつばこ)の横に置いた。()きは、(あおい)の靴より、ひと呼吸ぶんまっすぐだった。


廊下のいちばん(おく)で、書斎の青い光が半拍遅れて、ひと呼吸()れた。揺れた半拍の向こうで、ケンは()っていた。


透は廊下のいちばん奥に向かって(ある)()した。書斎の青い光は、ふだんの強さでひと呼吸(とも)った。


美月は玄関の上がり口で、ひと呼吸ぶん(みみ)()ませた。


澄ませた耳に、廊下のいちばん奥から、透の声がひと呼吸ぶん、こう(とど)いた。


「お父さん。婚約(こんやく)のあの夜から、二度目になります。――この()い方が、いまの()の中で(ふる)いの、わかってます。それでも、(おれ)はこの言い方しか()っていなくて。式の前に、もう一度。美月さんを、ください」


玄関の上がり口で、美月はひと呼吸ぶん、薄く(わら)いそうになった。笑いそうになったまま、笑わなかった。透が、古いと知って古いまま(えら)ぶなら、それは透の選んだ言葉(ことば)だった。


「ください」、のいちばん最後のひと文字の向こう側で、ケンの青い光は、ふた呼吸ぶん、半拍遅れたひと呼吸を繰り返した。


繰り返した半拍の向こう側で、ケンはこう答えた。


『……ああ。だが、「ください」、には答えられない。美月は、私のものではないから、私が君に(わた)すこともできない』


廊下のいちばん奥で、透がひと呼吸ぶん(だま)った。


黙ったひと呼吸のいちばん最後で、透の声がふだんの強さで、こう続いた。


「はい」


『これからを、よろしく』


「これからを、よろしく」、のひと呼吸の向こう側で、廊下のいちばん奥の青い光は、ふだんの青としてひと呼吸揺れた。


揺れた青の向こう側で、冷蔵庫のドアの上の磁石の下の紙の上の「23」、が、ひと呼吸ぶん薄く夜の灯りに()らされていた。


***


玄関(げんかん)()がり(ぐち)で、透は(くつ)()き直した。


美月は廊下のいちばん奥に向かって、ひと呼吸ぶん声を立てた。


「父さん。透、(くるま)まで(おく)ってくる」


『行ってきなさい』


廊下のいちばん奥の青い光が、ふだんの強さでひと呼吸(とも)った。


玄関の上がり口で、透はひと呼吸ぶん(みみ)を、廊下のいちばん奥の方に向けていた。


向けたひと呼吸の向こう側で、透はふだんの強さで、こう言った。


「お父さん、失礼します」


『うん』


***


左の薬指(くすりゆび)の上の銀色(ぎんいろ)のリングは、ふだんの書斎の青ではなく、廊下の灯りの薄い(だいだい)の色に薄く照らされていた。


玄関のドアを内側(うちがわ)から(かる)()めた。家の空気(くうき)は、廊下の橙と書斎の青を、ひと(つづ)きで(かか)えたまま(しず)かになった。明日(あした)の朝、冷蔵庫の紙の数字は「22」、に書き換えられるはずだった。



残された時間の数字の重みに胸が締めつけられたら【泣ける】を。★をひとつ、その一ヶ月に寄り添うように。

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