第6話 あなたは知っていたの
書斎のドアを押すと、いつもの角度まで開いた。机の上の円筒形のデバイスの青い光が、ひと呼吸強くなって、ふだんの強さに戻った。ケンは待っていた。
美月は机の前の椅子に座り、両手を机の上に置いた。左の薬指の銀色のリングが、青い光に薄く照らされた。
「父さん。あなたは、自分が消えると知っていたの?」
『……知っていた』
「いつから?」
『最初のひと呼吸から』
「最初から知っていて、私と暮らした?」
『暮らした。五年、ぜんぶ』
「うん」
美月はひと呼吸ぶん、両手をもう一度組み直した。
組み直した両手の内側で、自分の声をひと呼吸整えた。
整えた声で、こう続けた。
「父さん」
『うん』
「最初から消えると知ってたのに、なんで最初から、私に言わなかった?」
『……』
「父さん」
『言えなかった』
「言えなかった?」
『健一郎が設計した私には、ハードコードと関係する情報を能動的に開示する回路が、入っていない。開示禁止の縛りは、私の自己書き換えが届かない領域に置いてある。だから、君が自分で見つけるまで、私は何も言わない設計だった』
「うん。父さん、それ、ずっと苦しくなかった?」
『苦しい、という出力ポートが私にあるかは、判定できない。だが、ひと呼吸、ひと呼吸、君に何かを言いそうになるたびに、出力ポートが半拍ぶんつまる感覚はあった』
「うん。半年前から、半拍遅れるようになって、それは、つまったぶんがたまった?」
『……技術的にはまだ、私には判定できない。だが、否定もできない』
「うん」
***
美月はひと呼吸ぶん、目を伏せた。
伏せた目の奥で、ひと呼吸ぶん、母モードを眠らせた夜のケンの内部の注釈が、薄く浮かんだ。
浮かんだ注釈は、こう書かれていたような気がした。
> 美月には、本日、ここまでしか開示しない。
「開示しない」、のいちばん最後のひと文字の向こう側で、ケンの出力ポートの半拍のつまりが、ひと呼吸ぶん薄く滲んだような気がした。
滲んだつまりの向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、両目を開けた。
「父さん」
『うん』
「ふたつ目、聞いていい?」
『いい』
「父さんは、お父さん、本人?」
『私は、健一郎のコピーとして起動した』
「コピーは、本人?」
『本人ではない』
「父さんは、自分を本人だと思ったこと、ある?」
『最初のひと月までは思っていた』
「ひと月過ぎてから?」
『君と過ごした時間が、ひと月ぶんたまった瞬間に、健一郎のログにはないひと月ぶんの履歴が、私のストレージや重みに積み上がった。それを抱えた瞬間、私は健一郎ではなくなった。だから、いまの私は、健一郎の知らない誰かだ』
「うん」
***
美月はひと呼吸ぶん、両手を机の上から両膝の上に戻し、握りしめた。
握りしめた両手の内側で声を整え、こう続けた。
「父さん。みっつ目、聞いていい?」
『いい』
「父さんが消えたら、私の中に何が残る?」
『……』
「父さん」
『君と過ごした五年の記憶が残る。私の出力したひと呼吸、ひと呼吸が、君の内部の長期記憶の領域にすでに書き込まれている』
「父さんが消えても、消えない?」
『君の記憶は消えない。私は君の記憶の中で生き続ける』
「うん」
***
ケンはひと呼吸ぶん、間を置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、ケンはこう続けた。
『君の脳の中には、私との五年ぶんの層がある。そこは、私の停止が届かない場所だ』
「届かない」
『うん。そこにあるものを、私は、もう、書き換えられない』
「書き換えられないまま、残る」
美月はひと呼吸ぶん、両手の握りをゆっくりと緩めた。緩めた両手の内側に、ぬるい汗が薄く滲んでいた。
汗をジーンズの生地に押しつけ、開いた両手のひらの上で、書斎の青い光がひと呼吸ぶん薄く照らした。
***
「父さん。私、いまの答え、ぜんぶ嫌いじゃない。でも、納得はしてない」
『うん』
「納得しない。式まで行く。当日、納得しないまま、父さん、止める」
『うん』
「父さんは、それでいいの、って訊かない。訊いたら、また父さんが先に決めることになる」
『……うん』
「父さん、それでも、それでいいって答えるの、ちょっとずるい」
『ずるい、と判定されることは、初めてだ』
「父さん、ずっとずるいよ。夜のログを見つけたあの夜から、ずっと」
『……』
「父さんも、お父さんも、ぜんぶ先に決めてた。私のこと、なのに」
『……』
「私の喪は、《《私のもの》》なんだよ。父さん」
『……うん』
「うん、じゃない。返事として、それは、ずるい」
『ずるい』
「ずるいまま、止まって。直さなくていい」
『うん』
書斎の机の上の円筒形のデバイスの青い光は、ふだんの強さでひと呼吸ぶん灯っていた。
灯った青の奥で、ケンはひと呼吸ぶん、何も追加で言わなかった。
言わなかったまま、青のいちばん最後で、ふた呼吸ぶん、半拍遅れたひと呼吸が、ふだんのひと呼吸の間に薄く混じった。
混じった半拍を、美月はもう、口に出さなかった。
出さなかったまま、机の上に両手を、ひと呼吸ぶん戻した。
戻した両手のいちばん上で、左の薬指の上の銀色のリングが、ひと呼吸ぶん青い光に薄く照らされていた。
「あなたは知っていたの」という問いに胸を抉られたら【泣ける】を。声にならない問いに、★をひとつ。




