第5話 透にも莉子にも言えない夜
葵は夜の八時過ぎに帰った。
帰った葵の靴の向きを、玄関でひと呼吸、見送った。
見送った靴の向こう側のドアが、ひと呼吸軽く閉まった。
閉まったドアの内側で、家の空気はひと呼吸ぶん静かになった。
静かになった空気のいちばん奥で、書斎の青い光は、半拍遅れたひと呼吸を、もう一度繰り返していた。
夕食は食べなかった。
冷蔵庫のドアを開けて、ひと呼吸ぶん立った。
立ったまま、何も取らずにドアを閉めた。
閉めたドアの上の磁石の下の紙の上の数字は、まだ「24」、のままだった。
「24」、のすぐ下の白い余白を、美月はひと呼吸ぶん見つめた。
見つめた余白の上に、何も書き加えなかった。
***
リビングのソファに座った。
座ったソファの上で、両膝をひと呼吸抱えた。
抱えた両膝の上に、自分の頬をひと呼吸置いた。
置いた頬の向こう側で、書斎のドアの隙間から青い光が、廊下の向こうまで伸びていた。
伸びた青のいちばん最後で、ひと呼吸、ふた呼吸揺れた。
揺れたふた呼吸目が、半拍遅れた。
遅れた半拍を、美月はもう、口に出さなかった。
スマートフォンを手に取り、トーク・アプリを開いた。
開いた画面の上に、莉子と透のトークルームが、上から二番目と三番目に並んでいた。
莉子のトークルームを、ひと呼吸開けた。
開けたトークルームのいちばん下の入力欄に、ひと文字ぶん、カーソルが点滅した。
点滅したカーソルの上で、美月はひと呼吸ぶん、何も打たなかった。
打たないまま、ひと呼吸、ふた呼吸置いた。
置いたふた呼吸のいちばん最後で、入力欄のいちばん上の「莉子」、の名前を長押しした。
長押しした画面の上に灯った「通話」、のボタンに人差し指の爪をひと呼吸近づけ、結局、押さずに横にずらして画面を閉じた。
閉じた画面の上で、莉子のトークルームはまた、いちばん上の欄に戻った。
戻った欄のすぐ下の欄に、透のトークルームがあった。
透のトークルームを開け、入力欄のカーソルの上で、美月はひと呼吸ぶん、何も打たなかった。
***
打たないまま、自分の頭の中でこう言ってみた。
> ねえ、透。家にお父さんのAIがいて、式の翌日、止まる。
頭の中の透は、ひと呼吸置いて、こう言いそうだった。
> ああ、そうか。じゃあ、翌日、お父さん、最後の朝食、作ろうな。
美月は両膝の上で、声を上げずに笑った。笑ったいちばん最後で、両目の奥が熱くなった。ジーンズの生地に押しつけた目は、まだ涙にはならなかった。
頭の中の莉子は、ひと呼吸置いて、こう言いそうだった。
> 止める方法、ないんでしょ。なら、相談すること、ないじゃん。
そして声を低くして、こう続けるはずだった。
> ……一緒にいてほしい、なら、それは別。
「別」、の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、両膝の上のジーンズの生地を、もう一度握り直した。
握り直した生地のいちばん奥で、結婚を打ち明けたあの夜の莉子の声が、ひと呼吸ぶん薄く灯った。
灯った声は、こう言っていた。
> 私も、画面の向こうの誰かに本気で救われた側だから。
「側だから」、の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、目の奥をもう一度閉じた。
閉じた目の奥のいちばん最後で、莉子はもう、自分のぶんの結婚式の招待状の返信を、ひと呼吸ぶん机の上で書いているはずだった。
***
スマートフォンを、また手に取った。
取ったスマートフォンの画面の上で、莉子のトークルームを、もう一度開けた。
開けた入力欄に、ひと呼吸ぶんこう打った。
> 莉子、今度、お茶、しよ。
打った文字を、ひと呼吸ぶん見つめた。
見つめた文字のいちばん最後で、ひと呼吸ぶん送信ボタンを押した。
押したボタンの上で、画面の上のメッセージは、莉子のぶんのトークルームにひと呼吸ぶん上がっていった。
上がったメッセージのすぐ下に、莉子の既読の印がひと呼吸ぶん灯った。
灯った既読のすぐ下に、莉子の返信がひと呼吸ぶん灯った。
灯った返信は、こう書かれていた。
> いつでも。
「いつでも」、のすぐ下にもう一行灯った。
> 何も聞かない種類のお茶でもいい。
「いい」、のいちばん最後のひと文字の上で、美月はひと呼吸ぶん両目を閉じた。
閉じた目のいちばん奥で、両目から涙がひと粒ぶん零れ、両膝の上のジーンズの生地の上に薄く滲んだ。
透にはまだ、何も打たなかった。打たないまま、スマートフォンをテーブルの上に伏せた。
***
「父さん。今夜、何も相談しない」
『相談しない』
「使い切っていい。残してもしょうがない」
『……うん』
「半拍、遅れていい」
『遅れていい』
「うん」
***
卓上の時計の針が、午前零時を過ぎた。結婚式まで、あと二三日。美月はソファから立ち上がり、寝室には向かわず、廊下を書斎のほうに向かった。
向かった廊下のいちばん奥で、青い光が半拍遅れて、ひと呼吸揺れた。揺れた半拍の向こうで、書斎のドアの向こう側にケンが待っていた。
誰にも言えず、ひとりで抱えるしかない夜の苦しさに胸が痛んだら【泣ける】を。その孤独に寄り添えたら★を。




