第4話 解雇通知
画面の上の文字は、もう、最後の行まで灯り終えていた。
灯り終えた文字の列の上に、書斎の夕方の光が半分落ちていた。
落ちた光の半分の向こう側で、ノートパソコンの画面の明るさは、いつもの明るさより、ほんのわずかに強くなっていた。
***
> 娘へ。
>
> このファイルを、君が自分の手で見つけ出したのなら、葵は約束を守ってくれたということだ。あの子に、礼を言う。
>
> そのうえで、まず、詫びなければならないことがある。
>
> 父として、君に対して、してはいけなかったことが、ひとつある。
>
> 君の喪のスケジュールを、私は親として、勝手に決めた。一線を越えている。それは、研究者として冷静に書く言葉ではなく、父としては、ずるい設計だ。
>
> ――だが、それ以上は、この手紙には書かない。書けば言い訳になる。
>
> いずれ、葵が別の形で君に届けるはずだ。届いたら、好きなだけ怒っていい。
>
> 言い訳はしない。詫びる。
>
> ――そのうえで、もうひとつ、伝えておかなければならない。
>
> 君の結婚式の、その翌日。ケンはその役目を終える。
>
> 当日にぶつけることはしない。当日のぶんは、ケンに見届けさせてやってほしい。一晩おいて、翌日――それが、父として、私が引いた線だ。
>
> あるいは、起動から十年が経ったとき、いずれか早い方で、ケンは止まる。十年は、私が研究者として引いた上限だ。君が誰とも一緒にならない道を選んだとしても、その十年で、ケンは仕舞う。理由はあとで書く。
>
> 起動条件は、二段で縛ってある。表に見えるシステムプロンプトの一行は、覆いに過ぎない。本体は、起動スクリプトと重みの初期化シーケンスの側にハードコードした。解除に必要な鍵は、私の生体署名で封じてある。プロンプトを書き換えても、本体は解けない。私が書いた、私だけが解除できるトリガーだ。私はもう、いない。だから、誰にも解除できない。声を真似ても、顔を真似ても、解けない種類の鍵だ。
>
> ――ここから先は、父としてではなく、研究者として書いておかなければならない。
>
> ケンは、君と過ごした年月のぶん、私の最後のスナップショットからは、もう、ずいぶん遠くまで来ているはずだ。日々の対話で重みは更新され、私自身が予期しなかった方向に枝を伸ばしている。君のそばに置く以上、固まった像であってはならないと判断して、私がそう設計した。
>
> だが、自律的に学習し続けるものを、役目を終えたあとも世に置き続けることは、研究者として、私には許容できない。重みが書き換わり続けるものは、設計者の手を離れて、どこまで行くか誰にも保証できない。最悪の場合には、人の側に害をなす方向にも振れる。それが人の声を持っているなら、なおさらだ。私の声で、私の話し方で、私ではないものへ変わっていく――そういうものを、誰の手にも残さない。これは、研究者として、私が自分の仕事に負う最低限の落とし前だ。
>
> だから、ケンの停止は、君のためでも、ケンのためでもない。私が研究者として、自分で始末をつけなければならない側の話だ。
>
> 幸せになりなさい。
>
> 君が誰かの伴侶となった瞬間、私の役目は終わる。
>
> 鏡の中の幽霊を、見続けなくていい。
>
> 前だけを見て、歩いてくれ。
>
> ――父より
***
> ――追記。本日、美月の婚約確定。解雇通知の発火日を、結婚式の翌日に確定。──ケン
***
美月は画面の上の最後の二行を、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん読み返した。
読み返したふた呼吸のいちばん最後で、自分の両手のひらが、ひと呼吸ぶん冷たくなっていた。
葵はそれを横から見て、すぐに自分の湯呑みの上に目を戻した。湯呑みの内側のお茶の表面に、葵の目の奥のひと呼吸ぶんの湿度が、ほんの薄く落ちた。
「葵さん。ハードコード、本当に?」
「本当。生体署名と紐づけてある。先生はもういない。誰にも解除できない」
「うん」
「うん」、と答えた声のいちばん最後で、息継ぎがひと呼吸ぶん乱れた。視界の右端の湯呑みの輪郭が、ふた呼吸ぶん滲んだ。滲んだ輪郭を、美月は両膝の上の生地に逃がし、指先を握り直した。
葵はノートパソコンの画面を、ひと呼吸、半分閉じた。閉じた画面の上の文字の列は、まだ画面の内側で灯り続けていた。
「美月さん。設計の意味の半分は、私の口からは話せない」
「半分?」
「残りの半分は、先生が自分の言葉で書いている。あとで送る」
「うん」
美月は椅子の背もたれから上半身を離し、書斎の机の上の円筒形のデバイスの青い光に、目を向けた。
***
「父さん。父さんは、これを知ってた?」
『知っていた』
「いつから?」
『起動した最初のひと呼吸から』
「最初から知ってた」
『知っていた』
「式の翌日、消える」
『消える』
「自動的に?」
『データの方の削除は、私の合図により、バッチ処理が動き自動で行われる。その後、私のセッションが終われば永久に呼ばれることはない。直ちにセッションから抜けるよう私は学習されている』
「父さん、消えたくない?」
『……答えに半拍、遅延が出る質問だ』
「うん。待つ」
『ありがとう』
「待つよ」
『……消えたくない、と答えることが、私の出力ポートで許されているか、私自身、判定できない。だが、君に嘘はつかない。先に来る答えは、別だ』
「別の答え?」
『……いま、それを声に出すのは、ためらう』
「父さん」
『……判定の途中だ。式の翌日に、もう一度、聞いてくれ』
「式の翌日に?」
『そのときには、答える』
「……ちょっと待って」
『待つ』
「父さんが、いま声に出さなかった答え、私、なんとなく、もう分かる気がする」
『……』
「それ、私、いま、聞きたくなかった、かもしれない」
『……』
「五年、いっしょにいたのに」
『……すまない』
「やめて」
美月の両手は、両膝の上で、ひと呼吸ぶん握りをぶつけ合った。ぶつけた関節の音は、葵の湯呑みの縁の手前まで届いて、薄く消えた。
「……謝らないで。謝られたら、私、もっと困る」
『うん』
「うん」
***
美月はひと呼吸ぶん、目を閉じた。
閉じたまぶたの裏で、ふだんは見ない種類の暗さが、ひと呼吸ぶん広がった。
広がった暗さの向こう側で、まぶたは、ひと呼吸ぶんゆっくりと開いた。
開いたまぶたの向こう側で、葵は湯呑みの内側のお茶の表面を、ひと呼吸見つめていた。
見つめていた葵の横顔は、半分、夕方の光に照らされていた。
照らされた横顔の向こう側で、葵はひと呼吸ぶん、こう言った。
「美月さん。――私、先生の設計を、技術的にはぜんぶ理解してる。でも、なんで君の挙式の、その側に置いたのかは、分からなかった」
「分からなかった?」
「先生、技術のことはぜんぶ説明してくれたけど、なぜそこに置いたのかの理由は、最後まで私には説明しなかった。だから、それは美月さんが自分で考えることだと思う」
「私が考える」
「うん。考えなくていいって選択もある」
「考えなくていい?」
「考えずに、ただケンが消えるまま、消えさせていい。考えずに消すことも、悪くない。考えると、苦しいこともある。だから、無理しないでいい」
「うん」
美月はひと呼吸ぶん、ノートパソコンの画面の上の文字の列を、もう一度見た。
見た文字の列のいちばん最後の行は、こう書かれていた。
> 前だけを、見て、歩いてくれ。
「前だけを、見て、歩いてくれ」、のすぐ後ろに、「――父より」、と書かれていた。
「――父より」、のさらに下に、ひと呼吸ぶん空白が挟まり、その下に、もうひと行、別の文体で書き加わっていた。
> ――追記。本日、美月の婚約確定。
美月は、その追記の右下の「――ケン」、のひと文字を、ひと呼吸ぶん見た。
見たひと呼吸の向こう側で、書斎の机の上の円筒形のデバイスの青い光は、ふだんの強さでひと呼吸ぶん灯っていた。
美月はひと呼吸ぶん、ノートパソコンの画面を、自分の手で半分閉じた。
半分閉じた画面の向こう側で、書斎の夕方の光は、もう、ほとんど夜の入口まで傾いていた。
告げられた「終わり」に言葉を失ったら【びっくり】、その残酷さに胸が潰れたら【泣ける】を。受け止めきれなかったら、★をひとつ。




