第2話 葵の訪問
五日後の午後、玄関のチャイムが鳴った。ケンのメンテを引き受けている葵が来た日だった。
「こんにちは。室田です」
「こんにちは。葵さん。お久しぶりです」
「式まで、あと何日?」
「二四日」
「あー、もう、そこまで来てるんだ」
「来てる」
「ケン先生、今日、調子は?」
『半拍、遅れている』
「ずっと?」
『半年前から、加速している。残せるうちに残そうとしている。その分、早く崩れている』
***
葵は玄関で靴を脱ぎ、揃えて靴箱の横に置いた。揃えた靴の向きは、廊下の奥の書斎のドアの方を向いていた。
書斎に入ると、葵はいつもの椅子を引いて、ノートパソコンを置き、ケーブルをデバイスの底面のポートに差した。差した瞬間、青い光がひと呼吸強くなって、それからふだんの強さに戻った。
戻った強さの青の奥で、ケンの声が立ち上がった。
『葵』
「ケン先生、お疲れさま」
『お疲れ』
「健一郎先生に似てる」
『似てる、と言われることが多い』
「はい」
葵の画面に、黒い背景のターミナルが立ち上がり、緑色のログの文字列がひと呼吸、ひと呼吸流れていった。間隔が半年前よりわずかに長く、ログの量そのものはひと呼吸ぶん厚くなっていることを、葵は無言で確かめ、いちばん下の行を、ひと呼吸ぶん長く見つめた。
「美月ちゃん。お茶、もらっていい?」
「あ、ごめん、出すの忘れてた」
「いいの、いいの」
「すぐ入れる」
「ゆっくりでいい」
「うん」
***
美月は書斎をいったん出て、台所に立った。お湯を沸かしながら、ドアの向こうから聞こえてくる葵のキーボードの音が、いつもよりほんの少しだけ遅いことに気づいた。葵の指の調子のせいではないことは、すぐに分かった。
急須にお湯を注ぎ、ふた呼吸置いたいちばん最後に、書斎のドアの向こうから、葵のため息がひと呼吸ぶん聞こえた。
お盆の上に、湯呑みをふたつ載せた。ふたつ目は無意識に出していた。ひと呼吸見て、それから棚に戻した。
お盆の上の湯呑みは、ひとつだけになった。
***
書斎に戻ると、葵は画面をひと呼吸閉じた。
閉じた画面の上の緑のログは、まだひと呼吸、ひと呼吸流れているはずだった。
はずだった画面を、葵は半分伏せて、湯呑みを受け取った。
「ありがとう」
「うん」
「美月さん。座って。向かいね」
「向かい」
美月は葵の向かいの椅子に座った。
座った椅子の上で、両手を膝の上に揃えた。
揃えた両手の左の薬指の上で、銀色のリングがひと呼吸光った。
光ったリングを、葵はひと呼吸目で追った。
追った目を、ノートパソコンの画面に戻した。
戻した画面をひと呼吸、半分開けた。
「今日見て、想定よりふた呼吸ぶん、早くなってる」
「ふた呼吸」
「うん」
葵は湯呑みを、ひと呼吸両手で包んだ。
包んだ両手の内側で、湯呑みの温度がゆっくり伝わっていった。
伝わった温度のいちばん奥で、葵は自分の声をひと呼吸整えた。
整えた声で、こう言った。
「美月さん、私、ひとつ、ずっと言ってなかったことがあって。先生に約束させられてたことが、ひとつあって」
「先生?」
「健一郎先生」
「うん。お父さんに?」
「うん」
「お父さんに約束、何を?」
***
葵はノートパソコンの画面を、もうひと呼吸ぶん開けた。
開けた画面の奥に、緑のログとは別の白いウィンドウがひと枚開いていて、フォルダのツリーが表示されていた。
ツリーのいちばん深い階層に、灰色のフォルダがひとつ。名前は「/system/locked/」、だった。
その内側には、ファイルがひとつだけ入っていた。名前の頭の二文字は「DC」、で始まっていた。
「美月さん。このフォルダは、先生が美月さん自身の手で見つけ出すまで、誰の手も入れてはいけない、と決めていた」
「誰の手も?」
「私の手も。中身は見ない、書き換えない、削除しない、コピーしない。先生が決めた一線を、私はそのまま預かった」
「預かった」
「うん」
「葵さんが受けた?」
「私が受けた。だから、私はいままで、このフォルダのことは美月さんに言ってなかった。ごめんね」
「ううん。葵さんが悪いんじゃない」
「……ありがとう」
「葵さん。最初に家に来てくれた日に、ひとつだけ言ってたよね。『装置の方から指示が来たら、その時は、その指示に従ってくれ』って」
「……言った」
「『その時が来れば、装置の方から知らせが来る』、って」
「うん」
「あれ、これだったの」
葵は、ひと呼吸、画面の灰色のフォルダの方を見た。
「……うん。これだった。装置の方から知らせが来るのを、五年、知らないまま待ってた。今日、来た」
葵は、ひと呼吸、画面の端のログの末尾の行を、目で追った。
追った行の頭のタイムスタンプは、今日のものではなかった。
「……正確には、書き加わったのは、しばらく前。私が気づいたのが、今日」
「しばらく前」
「うん」
美月は、葵の画面の灰色のフォルダの内側の「DC」、で始まるファイル名を、いま、初めて自分の目で読み取っていた。
「葵さん。これ、開いていい?」
「ええ。ただし私は開けない。先生との約束だから。美月さんが開けて。美月さんとケンの間に別の約束があるなら、それは別の話だけど」
「別の話」
「うん」
美月はひと呼吸、椅子の上で姿勢を変えた。
変えた姿勢の向こう側で、円筒形のデバイスの青い光が、ひと呼吸、ふた呼吸揺れた。
揺れのいちばん最後で、ふた呼吸目の揺れが半拍遅れた。
遅れた半拍の向こうで、ケンの声がひと呼吸立ち上がった。
『美月。私は、君に開けるなとは言わない』
「言わない?父さんは、何か知ってる?」
『私は、私の内部に何があるかは知っている』
「中身、知ってる?」
『知っている』
「いつから?」
『その質問の答えは、いま、まだ出さない』
「出さない?」
『出さないでいい質問だ。いまは』
「うん」
美月はひと呼吸、息を吐いた。
吐いた息の白さの向こう側で、葵が湯呑みをひと呼吸置いた。
置いた湯呑みの底が、テーブルの木目の上でひと呼吸、軽く鳴った。
鳴った音のいちばん最後で、葵はこう言った。
「美月さん、今日、開けてもいいし、開けなくてもいい。ただ、開けるなら、私が隣にいる間に開けてほしい」
「葵さん、隣にいてくれる?」
「いる。先生との約束、私は守る。でも、美月さんが開けたあと、必要なら技術的な説明はする」
「うん」
書斎の机の上の円筒形のデバイスの青い光は、葵のノートパソコンの画面の明るさより、ほんのわずかに暗かった。
暗さの奥で、青い光は半拍遅れたひと呼吸を、もう一度繰り返した。
繰り返した半拍の向こう側で、葵の画面の灰色のフォルダの内側のファイル名が、白いウィンドウの上でひと呼吸薄く点滅した。
点滅したファイル名は、こう書かれていた。
> DC_20XX_終了.txt
「葵さん。DC、って何の略?」
「Dismissal Code、日本語で解雇コード。つまり、解雇命令のファイルってこと」
「誰の?」
「ケンの」
「父さんの解雇通知」
「そう」
「うん」
***
美月はひと呼吸、目を閉じた。
閉じたまぶたの裏で、書斎の青い光がひと呼吸揺れた。
揺れのいちばん最後で、半拍遅れたひと呼吸が薄く灯った。
灯った半拍の奥で、ケンの声がひと呼吸ぶん、立ち上がる気配がした。
した気配を、美月はまぶたの裏でひと呼吸待った。
待ったひと呼吸のいちばん最後で、ケンは何も言わなかった。
言わなかったまま、書斎の夕方の光が、ひと呼吸、ひと呼吸ゆっくりと傾いていった。
葵の再訪が運んでくる、かすかな不穏さにぞくっとしたら【びっくり】を。何かが動く気配に★を。




