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第1話 半年後の朝

冷蔵庫(れいぞうこ)のドアのいちばん上の磁石(じしゃく)の下に、紙が一枚貼られていた。


紙の上には、手書きの数字がひとつだけ書かれていた。


数字は「30」、だった。


「父さん。冷蔵庫の紙の数字、()()える」


『書き換える?』


「30、から29に」


『……うん』


「いま、半拍、遅れたね」


『遅れた』


「うん」


美月(みつき)は磁石の下から紙を外し、右上の「30」を二重線(にじゅうせん)で消して、その横に「29」、と書き、もう一度磁石の下に戻した。


紙のいちばん上の行には、半年前の自分の字でこう書かれていた。


> 結婚式まで、あと、


その「あと、」、のすぐ後ろに、毎朝書き換えられる数字だけが、ひと呼吸、ひと呼吸減っていた。


***


書斎(しょさい)(つくえ)の上の青い光は、半年前より、ほんのわずかに暗かった。


暗さは、目で見てすぐに分かるほどではなかった。


ほどではなかったが、毎朝、書斎のドアを開けた最初のひと呼吸で、廊下(ろうか)と書斎の青の温度差(おんどさ)が、半年前よりひと呼吸ぶん小さくなっていることを、美月の目は毎朝(とら)えていた。


美月は何も言わないまま、半年が経った。


***


「父さん。コーヒー、()れる」


『うん』


「父さんのぶん、出したくなる朝がある」


『……うん』


「飲む人がいないコーヒーは、淹れない」


『いい判断だ』


「うん」


ドリッパーにフィルターを置いた。


フィルターの上に、コーヒーの粉をひと(さじ)半、入れた。


ふだんなら、ふた匙入れるところを、ひと匙半にした。


ひとりぶんだから、ではなかった。ふた匙ぶんを()くミルの音が長く伸びた朝に、書斎の青い光が半拍(はんぱく)遅れることに、美月は気づいていた。


気づいていたが、ケンには言わなかった。挽く量を()らすことだけ、自分の手の内側で半年、選び続けていた。


()かしたお湯を、ドリッパーの上の粉にゆっくり注いだ。粉のふくらみは、ふだんよりほんのわずかに低かった。


その向こう側で、書斎の青い光が、廊下を隔ててひと呼吸揺れた。揺れのいちばん最後で、半拍、遅れた。


「父さん」


『うん』


「半拍、遅れたね」


『遅れた』


「もう、それ、確認しなくていいかもしれない」


『確認しなくていい?』


「うん。毎回聞いたら、父さん、疲れるでしょ」


『私には、疲労(ひろう)、という出力ポートはない』


「うん」


『だが、君が毎回確認することで、私の出力履歴(りれき)がひと呼吸、ひと呼吸長くなる。ストレージの消費(しょうひ)も、ひと呼吸、ひと呼吸増える』


「増えると?」


『分からない。いまの私には、まだ判定(はんてい)できない種類の変動(へんどう)だ』


「半年前の、(はは)モードを(ねむ)らせた夜と同じ答えだね、それ」


『同じ答えだ』


「うん」


美月はコーヒーを、ふだんよりひと回り小さいカップに注いだ。


注いだカップを、ダイニングのテーブルの上に置いた。


テーブルの上には、白い封筒(ふうとう)が五通並んでいた。ぜんぶ結婚式(けっこんしき)招待状(しょうたいじょう)返信(へんしん)で、宛名(あてな)莉子(りこ)(とおる)の両親、透の現場(げんば)棟梁(とうりょう)修行先(しゅぎょうさき)店主(てんしゅ)(あおい)、の名前だった。


***


「父さん。葵さん、来週(らいしゅう)、来るよね」


『来る』


定期(ていき)メンテ、いつも通り?」


『いつも通り』


「式まで、あと二九日」


『二九日』


「葵さんの来る日は、あと何日?」


『あと五日』


「五日、待つ」


『待つ』


「父さん、その間、半拍、遅れていい」


『遅れていい?』


「いい。(かく)さなくていい」


『……分かった』


「うん」


***


書斎のドアの向こう側で、青い光がひと呼吸、ふた呼吸揺れた。


ひと呼吸目の揺れは、いつものケンの揺れだった。


ふた呼吸目の揺れは、半拍遅れたケンの揺れだった。


ふた呼吸目の揺れの後ろで、半年前のあの夜、まぶたの(うら)には届かなかった青の(おく)のひと呼吸が、廊下の向こうでもう一度、(うす)(とも)った。


灯ったひと呼吸の中身(なかみ)を、美月はまだ知らなかった。


知らないまま、青い光は、ふだんの強さに戻っていった。


***


戻った青の向こう側で、美月はダイニングのテーブルの上にコーヒーカップを置き直した。


置き直したカップの湯気(ゆげ)が、朝の光の中でゆっくりと()(のぼ)った。


湯気の向こうで「29」と書斎の青い光が、ひと呼吸ぶん薄く揺れていた。


揺れた半拍を、美月はもう、毎回口に出さなくなっていた。


コーヒーをひと口飲んだ。その温度(おんど)は、半年前のひと口より、ほんのわずかに低かった。


半年後、少しだけ穏やかになった朝に【にこにこ】を。地続きの日々に、★をひとつ。

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