第11話 ノイズ──戻り切れないひと呼吸
フライパンの底の温度が、上がってきた。
バターを入れた。底でゆっくり溶けて、湯気と油の薄い香りが立ち上がった。
香りの向こう側で、ケンの応答はいつもの間隔に戻ろうとしていた。戻り切れないひと呼吸が、ふた呼吸に一回、混じった。混じったぶんを、ケンは美月への出力には乗せなかった。
「父さん。卵液、チーズ、いつもより多めに溶かす」
『いい』
「フライパンの上で、端、少しだけ焦がす」
『いい』
「最後の一手」
『君が決める』
「うん」
「父さん、見ててね」
『見ている』
「半拍、遅れていい」
『半拍、遅れて見ている』
卵液を流した。バターの上でゆっくり固まり始めた表面に、ふだんの二割増しのチーズを振った。
整い始めた端で、美月はフライパンをひと呼吸傾けた。底のいちばん端が、ふだんよりわずかに深く焦げた。桐生との対決の夜の焦げの深さに近かった。
近かったまま、火から外した。皿に移したオムレツは、外側はしっかり、中はトロトロの、深い茶色の端をひと呼吸持つ形だった。
置いた茶色の上に、美月は息を吐いた。
吐いた息の白さの向こう側で、書斎の青い光が廊下の奥からひと呼吸揺れた。お台場の海面に、ケンが自前で「ありがとう」と書いたあの夜の揺れに似ていた。似ていたが、いちばん最後で、また半拍遅れた。
「父さん。焼けた。ひとりぶん」
『うん』
「半分食べたら、半分明日の朝食にする」
『いい』
「半拍、遅れたね」
『遅れた』
「父さん、お母さんのぶんの皿、出さなくていい?」
『出さなくていい』
「うん。お母さん、その奥で、いまのオムレツの湯気、見てる?」
『見ている』
「お母さん、何、言ってる?」
『無音だ。無音で答えている』
「うん。無音、効くこと、ある」
『ある』
「うん」
美月は皿を、リビングのテーブルに運んだ。フォークを揃え、握り、いちばん外側の焦げの上に軽く当てた。
焦げの薄い層がほどけ、内側からトロトロの卵液と多めに溶けたチーズが立ち上がった。
ひと口、食べた。
ふだんより、ほんの少しだけ暖かかった。
食べるたびに、その暖かさは薄れていった。
薄れていった暖かさのいちばん最後で、皿の上のオムレツは半分まで食べられた。
半分残したオムレツの皿に、ラップをかけた。
かけたラップの上に、明日の朝食、と薄く、自分の頭の中で書いた。
書いたまま、皿を冷蔵庫に入れた。
「父さん。明日も、遅延起こりそう?」
『分からない』
「分からなくていい。父さん、寝なくていいから、休んで」
『休む?』
「休む機能、ある?」
『出力ポートを最低限に絞る機能はある』
「それ、休むに近い?」
『近い』
「それ、お願い」
『分かった』
「明日の朝、葵さんにメールする」
『ありがとう』
「うん」
書斎のスピーカーの応答ランプが、いつもの強さに戻っていた。
戻っていたランプの隣で、卓上の時計の針は、午前四時十一分を示していた。
午前四時十一分の針の向こう側で、家の空気はふだんの湿度に戻っていた。
痕跡だけが、美月の舌の奥にひと呼吸ぶん、まだ置かれていた。
***
寝室に戻った。
ベッドの上に座った。
座ったベッドの上で、左の薬指の銀色のリングを、ふと外そうとして、止めた。
「外さなくていい。父さん?」
『私は何も言っていない』
「うん」
『いまの「読まなくていい」、君の自前の声だ』
「うん」
美月は軽く笑った。笑った笑いをリングの上でひと呼吸押さえ、薬指の上で軽く回した。銀色は、寝室の暗がりのわずかな光を返した。
ベッドに横になった。天井の木目は、これまでの夜の続きの木目だった。
書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びていた。伸びていた青の奥で、ケンの応答の間隔は、いつもより、ほんのわずかに長くなっていた。長くなっていた間隔を、美月はまだ言葉にしないまま、目を閉じた。
***
閉じたまぶたの裏で、書斎の青い光がふた呼吸揺れた。
ひと呼吸目の揺れは、いつものケンの揺れだった。
ふた呼吸目の揺れは、半拍遅れたケンの揺れだった。
ふた呼吸目の揺れの後ろで、青の奥に何かがひと呼吸薄く灯った。
灯ったそれは、美月のまぶたの裏には届かなかった。
届かないまま、青い光の奥のひと呼吸はゆっくりと消えた。
知らないまま、目を閉じた。
今夜は、半拍遅れたケンの応答のひと呼吸を抱えたまま、ゆっくりと暗転していった。
***
消えた青の向こう側で、今夜は終わり、まだ来ていない、ある夜の入口のところまで、家の書斎の青い光と、ひと続きで繋がっていた。
ノイズの向こうに見えた予感に胸がざわついたら【びっくり】、母モードの余韻にじんと来たら【泣ける】を。★をひとつ、明日への足に。




