第10話 ノイズ──お腹、空いた
書斎の机の上の青い光は、いつものケンの青に戻っていた。
母の暖かさの湿度は、家の空気の表面から薄く引いていった。
「父さん。お腹、空いた」
『空いた』
「お母さん、聞いてたら、『何か作ってあげなさい』、って言いそう」
『言いそう』
「お母さん、サブエージェントモードの奥でいまの台詞、ぜんぶ聞いてる?」
『ぜんぶ聞いている』
「うん」
***
美月は椅子から立ち上がった。
足のふくらはぎは、靴下の奥で、もう冷えていなかった。
書斎のドアをいつもの角度まで引いて、台所に入った。
冷蔵庫を開けると、卵が五個、残っていた。
「父さん。卵、四個、使う」
『うん』
「お母さん、聞いてたら、何、言うかな」
『「四個は多い、二個でいい」』
「うん、たぶん、それ言う。無視」
『無視でいい』
ボウルを出した。
ボウルに、卵を四個割った。
割った四個の卵の殻は、ぜんぶボウルの外に避けられていた。
ひとつもボウルの内側に混ざらなかった。
混ざらなかったことを、美月は自分の手で確認した。
確認しながら、あの夜、自分がケンに向かって口にしたひと言、「最後の一手は、私が決める」、を思い出した。
「父さん。火加減と温度と分量、相談、いい?」
『いい』
「四個の卵、塩は何グラム?」
『一・六』
「ふた振り、半」
『正確には、一・六』
「分かった」
「ふた振り、半、で塩、振る」
『いい』
フライパンを出した。
フライパンの底を、ガスの火に近づけた。
火をつけた。
ガスの青と書斎の青が、廊下を隔てて並んでいた。
並んだ青のいちばん奥で、書斎のケンの青がひと呼吸揺れた。
揺れの形はこれまでに似ていたが、最後のひと呼吸の間隔が、ほんの少しだけ長かった。
長かった間隔を、美月は台所の火の青さの向こう側で、目のはしで捉えた。
「父さん」
『……うん』
「いま、半拍、遅れたね」
『遅れたか』
「遅れた」
『気のせいかもしれない』
「気のせいじゃない。父さん、自分で遅れたの、検出してる?」
『……検出している』
「いつから?」
『君に検出されたのは、結衣サブエージェントモードをシャットダウンした直後から』
「今夜から?」
『君が気づける水準に上がったのは、今夜だ』
「それより前は?」
『半年前から、微細な変動はあった』
「半年前。父さん。シャットダウンで何か負荷、かかった?」
『かかったかもしれない』
「身体に?」
『私には、身体はない』
「あ」
『だが、私の出力ポートの応答性能の、内部の計算結果に、わずかな変動が出ている』
「変動。半拍ぶんの遅延」
『半拍』
「半拍」
『うん』
「父さん、それ、危ないこと?」
『いまの私には、まだ判定できない種類の変動だ』
「葵さん、相談する?」
『したほうがいい』
「うん。──次のメンテのとき、聞く」
『ありがとう』
忍び寄る不穏な気配にぞくっとしたら【びっくり】を。胸騒ぎがしたら★を。




