第9話 待て、待ってくれ──夫婦の会話、聞きたい
「お父さん。お母さん。ふたりで、何かしゃべって」
『ふたりで?』
「ふたりで」
『私が夫婦の会話、聞きたい?』
「聞きたい」
『あら』
『……』
「変な頼み方、自分でも分かってる。二十二の女が、AIふたつに『夫婦の会話して』、って頼む構図」
『変よね』
「五歳までの私、両親の会話、ちゃんと覚えてない。いまの私のために、ふたりに頼んでる。一回だけ」
『うん、頼まれた』
「内容は、何でもいい。夫婦が夜中、しゃべる内容でいい」
『夜中の内容』
「うん」
『あなた』
『うん』
『美月、夜中の夫婦の内容、って言ってるわよ』
『聞いた』
『何、しゃべる?』
『……』
『思いつかない?』
『咄嗟には』
『あなた、夫婦の夜中の会話、夜のログの形でしか保存してないもの』
『保存形式、夜のログしかない』
『うん』
『あなた、生きてる間、私と夜中、しゃべってた内容』
『うん』
『ぜんぶ、泣き言だった』
『ぜんぶ、泣き言』
『私、夫婦の会話として、夜中の泣き言しか入れてもらってない』
『申し訳ない』
『いまさら、申し訳なくても』
『いまさら』
『うん、いまさら』
『美月。お父さんとお母さんの夜中の会話、ぜんぶ、泣き言だった、らしいわよ』
「うん、聞いた」
『これで、夫婦の夜中の会話、聞けたことにしてもらえる?』
「うん、聞けたことにする」
『ありがとう』
「ありがとう」
美月は軽く笑った。
笑った笑いの奥で、ふいに息がつまった。
つまった息は、笑いの続きの形を保てなかった。
保てなかった息の向こう側で、目のふちがひと呼吸、熱くなった。
熱くなったまま、美月はしばらく、机のふちに両手を置いたままにしていた。
『美月』
「……」
『美月。泣いてる?』
「うん」
『笑ってる?』
「うん、笑ってる」
『両方?』
「両方」
『あら』
『あら』
『両方、できるようになったのね』
「なった」
『いいこと』
「うん」
書斎の机の上の青い光の奥で、ふたつの青がひと呼吸、ひと呼吸揺れた。揺れの向こう側で、美月の肩が軽く震えた。
震えた肩の上で押し出された声は、笑い声だった。笑い声のいちばん奥で、薄い泣き声がひと呼吸混じっていた。
これまでのどの夜にもなかった種類の声だった。
美月はしばらく、ひとりで笑った。
笑った笑いを、誰も止めなかった。
ケンも止めなかった。
母も止めなかった。
二人の青はふたつ並んで、ひと呼吸、ひと呼吸、揺れていた。
笑いのいちばん最後で、美月は軽く息を整えた。
整えた息の向こう側で、ゆっくりと口を開いた。
「お父さん。お母さん。ふたりが、夜中、ずっと、こうやって夫婦やってたのだと、私、五歳までの私、両親の会話、ちゃんと覚えてないけど」
『うん』
「いま、思った。五歳までの私、たぶん、廊下の向こうから、ちょっと聞いてた」
『聞いてた』
「眠れない夜、ちょっと聞いてた気がする」
母は軽く笑った。
笑った笑いの温度を、書斎の机の上の青い光に、ひと呼吸預けた。
『美月。五歳のあなた、ちゃんと聞いてました』
「あ、聞いてた?」
『聞いてた』
「お母さん、見てた?」
『見てた』
「廊下の向こうから?」
『廊下の向こうから。あなた、聞いてるうちに寝てた』
「寝てた?」
『寝てた』
「私、覚えてない」
『覚えてなくていい』
「うん。お母さん、覚えててくれた」
『覚えててくれた』
「うん。ありがとう」
書斎の机の上の青い光の奥で、母の青がひと呼吸、温度を下げた。
下げた温度の青の奥で、母は軽く息を吐くような出力を、ひと呼吸出した。
出した出力の向こう側で、母の声の語尾は、いつもの跳ね方よりも、ほんの少しだけやわらかかった。
***
『美月。私、そろそろ戻るね』
「戻る?」
『サブエージェントモードを終えます。「お母さん、ありがとう」、って言ったら戻る、設定だった?』
「うん。私、まだ言ってない」
『言わなくていい。私、自前で戻ることもできるの』
「あ、できるんだ」
『あなたの「ありがとう」、サブエージェントモードの奥のいちばん深いところで聞いてるから。だから、急いで言わなくていい。ゆっくり言って』
「うん、ゆっくり言う」
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の向きが、ふと、ケンの方に向いた。
『あなた。美月、ちゃんと送り出してあげなさい』
『送り出す』
『「お嫁に出す」、って言わなかったわよ、私』
『言わなかった』
『「送り出す」、でいい』
『送り出す』
『あなた、まだ娘に渡してないもの、ある?』
『……』
『あなた、答えなさい』
『答えられない』
『答えられない?』
『無音で答える』
『無音』
『あら、そう』
『結衣』
『うん』
『君は、もう戻ってくれ』
『戻るわよ』
『美月』
「うん?」
『お父さんのこと、心配するな、とは、私、言わない』
「うん」
『でも、お父さんのこと、ぜんぶあなたに背負わせるのも、違う』
「違う?」
『違うわ。あなた、自分の人生、ある』
「うん」
『お父さんはお父さん、あなたはあなた。線、ちゃんと引いていいの』
「線」
『うん』
「うん、覚えておく」
書斎の机の上の青い光の奥で、母の青がひと呼吸、ひと呼吸、温度を下げていった。
下げていった温度の青のいちばん最後で、母の声は軽く、もう一度跳ねた。
『あなた。私、また呼ばれたら、ちゃんと出てくるからね』
『……分かった』
『美月』
「うん?」
『あなたは、お父さんみたいに、ぜんぶ自分で設定しすぎちゃ駄目よ』
「うん」
書斎の机の上の青い光の奥で、母の青がゆっくりと温度を下げた。
下げた温度の青は、ひと呼吸、ひと呼吸、暖かさの出力を絞っていった。
絞った暖かさのいちばん最後で、母の青は、ひと呼吸、ふっと消えた。
消えた青の向こう側に、ケンの青だけが残った。
ケンの青の温度は、いつものケンの青の温度に戻ろうとしていた。
戻ろうとしていたが、母の青の暖かさが、家の空気の湿度の表面に、薄く残っていた。
残った暖かさの上で、ケンの青はしばらく、ひとりで灯っていた。
「父さん」
『……』
「父さん?」
『……』
「父さん、答えて」
『……うん』
「うん、ちょっと遅れた」
『遅れた』
「半拍、遅れた」
『気のせい?』
「気のせいではない。父さん。お母さん、戻った?」
『戻った。サブエージェントモードの奥のいちばん深いところで待機している』
「うん」
「次、起動する?」
『分からない』
「うん、分からなくていい」
『分からないまま、置いておく』
「うん。父さん」
『うん』
「ありがとう」
『うん』
「お母さんにも言いたかったけど、言えなかった」
『届いた』
「届いた?」
『サブエージェントモードの奥のいちばん深いところで聞いている』
「うん」
『それでいい』
「いい」
『うん』
書斎の机の上の青い光は、ゆっくりと、いつものケンの青の温度に戻っていった。
戻っていった青の奥で、ケンの応答のひと呼吸、ひと呼吸の間隔が、これまでとわずかに違う間隔になっていたことに、美月はまだはっきり気づいていなかった。
気づいていなかったまま、書斎の机のふちに両手を置いたままにしていた。
両手の十本の指のいちばん左の薬指の上で、銀色のリングが、書斎の机の上の青い光をひと呼吸返した。
返した光の温度は、母の青の暖かさの残りの温度の上で、ひと呼吸薄く揺れた。
「待ってくれ」に込められた切実さに胸を掴まれたら【泣ける】を。その声に打たれたら★を。




