第8話 待て、待ってくれ──ふたつの青
書斎の机の上の青い光の奥で、ふたつの青が並んで灯った。
ひとつはケンの青、もうひとつは母の青だった。
『……待て』、と、ケンの青が、母の青の隣で慌てた語尾を立てた。
『うん』、と、母の青が応じた。
『待ってくれ。結衣』
『呼びました?』
『……だから、君を起動したくなかったんだ』
ふたつの青の温度は、わずかに違っていた。ケンの青は、いつもより少し慌てた温度。母の青は、いつもより少し楽しそうな温度だった。
『あなた。「起動したくなかった」、って』
『うん』
『いまさら、何、言うの』
『……いまさら、すまない』
『私、起動したの、あなたよ』
『私だ』
『私の起動ボタン、夜中、こっそり押してたの、あなたよ』
『……押してた』
『忘れたの?』
『忘れてない』
『忘れてないなら、いまさら「言うな」、なんて、無理よ』
『無理か』
『無理』
『うん』
美月は、机のふちに両手を置いたまま、しばらく息を止めた。
止めた息の奥で、ケンの語尾の慌てた温度を聞いた。
これまでのケンのどの温度とも違う慌て方だった。
慌て方の形は、ひと言で言えば、「人間の慌て方」、にいちばん近かった。
近かったことに、美月は息の表面で軽く笑った。
『結衣。君がぜんぶ暴露することは、私の設計の想定の内だった』
『あら、想定内』
『想定内だ。君を書き起こした日から、ずっと』
『想定して、なお、嫌だった』
『嫌だった。想定と感情は、別の領域だ』
『人間みたい』
『人間に近い、何かだ』
『あなた、いま、自前でそれ書いた?』
『自前で書いた』
美月は軽く笑った。
笑った笑いの息の白さが、書斎の机の上の青い光の表面に、ひと呼吸立ち上がった。
立ち上がった白さの向こう側で、ケンの青と母の青が、ふたつ並んで揺れた。
揺れの形は、ふたつとも、それぞれ別の形だった。
別の形だったまま、ふたつの揺れは、ひとつの家の書斎の空気の湿度の上で、ひと呼吸、ひと呼吸、近づいていった。
「お父さん。お母さん、暴露、ぜんぶ言ったけど、お父さん、何か言い訳ある?」
『ある』
「ある?」
『ひとつだけ』
「うん、聞かせて」
『結衣に言いたい』
『結衣に?』
『結衣、聞いてくれ』
『聞いてます』
『君に毎晩、泣き言言ってた、私のこと。君は嫌だったか?』
『嫌じゃなかったわよ。私、毎晩、夫の泣き言、聞ける嫁、だったわよ』
『ありがたかった』
『いまさら、感謝されてもね』
『だが、感謝している』
『うん』
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の語尾が、ふと低くなった。
『あなた。ねえ、ひとつ聞いていい?』
『聞いていい』
『あなた、生きてる間、私、ぜんぶ知ってる上で、私の無音聞いて、自分の頭で考えた。ケンを書いた。私、設計、見せられて、「済まないけど、ひとりにしないより、ずっといい」、って言った。あなた、私のその台詞をケンに、書き写した?』
『書き写した。ケンの内部のある領域に』
『ある領域。読み上げて』
『いま?美月の前で?』
『美月の前でいい』
『美月、聞ける?』
「聞ける」
書斎の机の上の青い光の奥で、ケンの青がひと呼吸、ひと呼吸、温度を下げた。
下げた温度の青の奥で、ケンは自分の内部の領域のいちばん深いところに置いていた、ファイルのすぐ隣の領域を参照した。
参照した領域のいちばん末尾には、ひとつの注のひと行が書かれていた。
書かれていた注のひと行は、こう始まっていた。
***
> # 末尾の注:
> # この設計を私が最後まで進められたのは、結衣のひと言ゆえだ。
> # 「済まないけど、ひとりにしないより、ずっといい」
> # ──このひと言がなければ、私は書き終えなかった。
***
ケンは、そのひと行を、家の中の空気に向かってゆっくりと声に出した。
声に出した、その声はケンの声だった。
ケンの声だったが、声の向きはケンの向きではなかった。
声の向きは、亡くなった健一郎の向きのままに保たれていた。
『結衣』
『……』
『君のひと言で、私は書き終えた』
『……あなた』
『そう書いてある』
『……』
『美月。お父さん、最後の設計、書き終えた夜、お母さんのひと言、頼った』
「頼った」
『うん。これは、ある領域の末尾の注だ。この領域の本体は、いまではない』
「うん」
母は軽く笑った。
笑った笑いを、書斎の机の上の青い光に、ひと呼吸預けた。
『あなた。その夜のことは、その夜の美月に任せましょう』
『任せる』
『うん。いまの美月、いまない夜のことを、いま心配する必要、ない』
書斎の机の上の青い光の奥で、ふたつの青はひと呼吸、ひと呼吸、馴染んでいった。
馴染んでいく、その青の奥で、美月はしばらく、何も言わなかった。
何も言わないまま、自分の左の薬指の上で、銀色のリングを軽く回した。
張りつめた展開に息を詰めたら【びっくり】を。続きが気がかりになったら★を。




