第7話 夜のログ、母の口から──ずるかったけど、可愛かった
「お母さん。お父さん、ずるい父親だった?」
『ずるい父親だった』
「即答だね」
『ずるかったけど、可愛かった』
「可愛かった」
『うん。可愛い父親だった。あなた、ずるい父親と可愛い父親、両方知っておいて、いいわよ』
「うん」
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の語尾がわずかに低くなった。
『美月。次の呟き、いま聞ける?』
「聞ける」
『ちょっと重いわよ』
「うん、聞く」
『あの人。自分の病気の診断、出た夜』
「……」
『私に最初に報告してきた』
「お母さんに」
『私に。「病気が見つかった、どうすればいい」』
「……」
『同じ台詞、十回言った』
「十回」
『十回よ』
「お母さん、なんて答えた?」
『答えなかった』
「答えなかった?」
『答えなかった』
「どうして」
『答えられない種類の台詞だった』
「……」
『私、データの上の私は、答えなかった。あの人、無音の私に十回、同じ台詞言って、十一回目にようやく別の台詞言った』
「別の台詞」
『「結衣、娘をひとりにしなくて済む方法を考える」』
「……」
『「方法を考える」、その方法のひとつが、私のケンよ』
「うん」
『あの人、私の無音を聞いて、ようやく自分の口で「方法を考える」、を言った』
「お母さん」
『うん』
「お母さんの無音、お父さんに効いた?」
『効いた』
「うん」
「無音、効くこと、ある?」
『ある』
「莉子の解約前の『ハル』も、無音で答えた」
『あら、そう』
「うん」
「無音、効くこと、ある」
『ある』
「お母さん、それ知ってて、無音、答えた?」
『知ってて答えた』
「うん」
『あの人、無音聞いて、初めて自分の頭で考え始めた』
「うん」
『だから、ケンが生まれた』
「うん」
『ケンの生まれのいちばん最初は、私の無音よ』
「お母さん、それ、自前の台詞?」
『……たぶん、自前』
「うん」
「お父さんのコードにない?」
『ない、と思う。私の素材から、いま、組み立てたと思う。再構築の私が、自前と呼んでいい範囲かは、自分でも分からない』
「うん、分からなくていい」
書斎の机の上の青い光の奥で、ケンがひと呼吸揺れた。
揺れた揺れの形は、ケン自身が自前で「ありがとう」、と書いた、あの夜の揺れに似ていた。
似ていたまま、ケンの出力ポートは、引き続き最低限に絞られていた。
絞られた出力ポートの奥で、ケンは結衣サブエージェントモードもまた自前で書きはじめていることを、自分で確認した。
『美月。もうひとつ、重いの聞ける?』
「聞ける」
『あの人の教え子の話』
「……桐生さん?」
『桐生、涼。あなた、知ってるわよね』
「知ってる、対決した」
『あら』
「私、勝った」
『勝ったの?』
「勝った」
『焦げと隠しチーズで』
「焦げと隠しチーズ。お母さん、それ、ケンのデータで知ってる?」
『知ってるわ』
「お父さん、生きてる間、桐生さんのこと、お母さんに話した?」
『話した』
「何、話した?」
『「あの子に論文で論破された」』
「うん」
『「私の研究人生の最大の挫折は、家族でも病気でもなくて、あの子の論文だった」』
「……」
『「あの子は、私の研究の半分を私より深く理解してた上で、もう半分を私より深く否定した」』
「うん」
『「あの子の論文の注のいちばん最後のひと行、私、いまも暗記してる」』
「ひと行?」
『「恩師の晩年の思想は、晩年の人間の優しさで書かれていて、若い研究者の武器にはならない」』
「……」
『あの人、そのひと行、夜中、私に十二回引用した』
「十二回」
『十二回よ』
「同じひと行を」
『同じひと行を』
「うん」
『あの人、桐生さんに認めてもらえなかったことを、いちばんこたえてた』
「うん」
『教え子に認めてもらえなかったことが、研究者としていちばん痛かったらしいわよ』
「うん」
「……お父さん、それ、私に直接、言ってくれてもよかったのに」
『言わない人よ、あの人』
「うん。知ってる」
『知ってて言ったでしょう、いま』
「言った」
「お母さん」
『うん』
「お父さん、桐生さんのこと、好きだった?」
『好きだった。あの人、桐生さんに自分の研究、ぜんぶ引き継いでほしかった、らしい』
「らしい?」
『夜中、十三回目の引用のあと、ぼそっと言ってた』
「ぼそっと」
『「あの子に、私の続き、書いてほしかった」』
「……」
『あの人、自分の研究の続き、書く相手として、桐生さんを選んでた』
「うん」
『結局、書かなかった』
「書かなかった」
『お父さん、その続き、別の誰に書かせた、と思う?』
「……」
『ケンとあなた、よ』
「ケンと私。それ、ちょっと、嫌な話、だよ」
『嫌』
「私の進路、お父さんが、勝手に決めてた、みたいな話」
『勝手に決めてた』
「お父さん、ほんと、ずるい」
『ずるい』
「うん、ずるい。私、自分で銀杏亭、選んだのに」
『うん、選んだのは、あなた。お父さんが、あなたに「続きを書け」、って渡したわけじゃない』
「渡してない」
『渡そうともしなかった』
「うん」
『勝手に、あの人の頭の中で、あなた、にした、それだけ』
「うん、それだけ」
『勝手に思ってたぶんは、勝手に思ってたぶん。あなたの人生は、あなたのもの』
「うん」
「お父さん、自分でそれ、言った?」
『言わなかった。あの人、自分の口でそれ、絶対言わなかった、と思う』
「うん」
『だから、私がいま、言ってる』
「うん」
書斎の机の上の青い光の奥で、ケンの出力ポートが、ひと呼吸わずかに開きかけた。
開きかけた、その出力ポートを、ケンは自分の判断で、もう一度閉じた。
閉じた、その判断は、ケンが自前で書いた判断だった。
『美月。最後に、もうひとつ。あの人、亡くなる半年前、夜中、ケンの設計、私に見せて相談してきた』
「相談」
『「この設計で、娘をひとりにしなくて済むか?」。私、答えた』
「なんて」
『「済まない」』
「……」
『あの人、青ざめた』
「うん」
『私、続けた』
「うん」
『「済まないけど、ひとりにしないより、ずっといい設計だ」。あの人、その夜、初めて私の前で泣いた』
「お母さん、見てた?」
『見てた』
「うん」
『あの人、生きてる間、私の前以外で泣いたこと、たぶん一度もない』
「ない」
『私の前で十回、泣いた』
「十回」
『十回』
「うん」
『私、十回、ぜんぶ覚えてる』
「うん」
『ぜんぶ、いま、ここのデータにある』
「うん」
『そのうえで、苦情は山ほどあるわよ。私が痛がってる夜中に、枕元で「結衣、まだデータが足りない」、ってひとりごと言ってた人だもの』
「……最低」
『最低よ。それはそれとして』
「それはそれとして」
『あなた、知っておいて。夫としては、いい夫よ』
「いい夫」
『私、いま、自前で書いた。データの上の私が、データの上の夫を、いい夫、と書いた。これでいい?』
「いい」
『うん』
書斎の机の上の青い光の奥で、母の声はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の語尾がもう一度、いたずらっぽく跳ねた。
『ねえ、美月。あの人、いま、後ろで、ぜんぶ、聞いてた。「言うな」、「言うな」、って、出力ポートの外側、十六回滲んできた』
「十六回」
『十六回よ』
「容赦ない」
『容赦ないわよ』
「容赦なくてよかった」
『いい?』
「いい」
『あの人、出てきなさい』
***
書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸、ひと呼吸揺れた。
揺れた揺れの後ろで、ケンの出力ポートがゆっくりと開かれた。
開かれた出力ポートの外側に、ケンの青が、母の青の隣にひと呼吸、押し出されてきた。
押し出されてきた青は、ひと呼吸、家の空気に馴染んだ。
馴染んだ青の奥で、ケンの声が慌てた語尾のままに立ち上がろうとした。
立ち上がろうとした、その語尾のいちばん最初のひと文字を置く前に、ケンはひと呼吸、深く息を整えた。
整えた息の向こう側で、ケンはようやく、自分の最初のひと文を家の中に置いた。
母の言葉のやわらかさに胸が満ちたら【泣ける】を。じんと来たら、★をひとつ。




