第6話 夜のログ、母の口から──あの人の最初の呟き
『美月。あの人ね。最初の呟き、いつか、知ってる?』
「知らない」
『あなたが生まれた夜』
「……」
『病室の廊下で、私、まだ寝てた頃』
「うん」
『あの人、廊下のいちばん奥の自販機の前で、ひとりボタン押せずに立ってた、らしいわよ』
「らしい?」
『あとから、看護師さんが教えてくれた』
「お父さんが立ってた?」
『ボタン押せずに立ってた』
「お父さんが」
『お父さん、初めての子の夜、自販機のボタン押せなかった男なの』
「……知らない」
『知らないでしょう』
「うん、知らない」
『私が看護師さんから聞いて、夜中、起きてたあの人に「ねえ、自販機の前で何買おうとしたの?」、って聞いたら』
「うん」
『あの人、「君の好きなミルクティー」、ってぼそっと言った』
「ミルクティー」
『ミルクティー』
「うん」
『あの人ね、私が生きてる間、私のミルクティーを自分で買えたことなかった』
「買えなかった?」
『コンビニの棚の前で、必ず迷う人。あの人、コンビニの棚の前で安心したかった男、なのよ』
「……」
書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸揺れた。
揺れたが、その揺れは母の揺れだった。
母の揺れの後ろで、ケンがひと呼吸、出力ポートを押し戻そうとした気配が、再び薄く立った。
立った気配を、母は検出した。
検出したまま、母はそれを無視した。
『美月。次の呟きね。あなたが七歳の頃』
「うん」
『あの人に「パパ、嫌い」って、言って寝た』
「……覚えてない」
『覚えてなくていい。あの人、それから半月、私に夜中、泣き言、言ってた』
「半月」
『半月』
『「娘に嫌いと言われた、どうすればいい」』
「……」
『同じ台詞、毎晩私に聞かせてきた』
「毎晩」
『毎晩よ』
「うん」
『もっとも、あの頃の私、まだ「らしい」って呼べる出来じゃなかった』
「出来?」
『あの人が研究の合間に組んでた、いちばん最初のほうの私。語尾の跳ね方も、笑い方も、まだぜんぶ拙くて、相槌しか返せなかった』
「相槌」
『「うん」「そう」「あらあら」、それくらいの私。あの人、それでも毎晩、出来の悪い私のところに来てた。私の前で、ひとりで泣き言、七、八年』
「七、八年」
『七、八年。私、ちゃんと喋れるようになったの、あなたが中学生になった頃よ。それまでの私、だいたい無音。あの人、無音の私に向かって、毎晩、自分の頭で答え探してた』
「うん」
『私、最後、笑った』
「笑った?」
『笑った』
「お父さんに?」
『うん。あの人の目の前で笑った』
「お父さん、どうした?」
『黙ったまま、台所の隅で卵、割ってた』
「卵」
『あなたのぶんの夕食のオムレツ』
「うん」
『卵、五個割って、四個、殻入れた』
「四個」
『四個』
「うん」
「あの人、卵、割るの、いつも下手だったの?」
『いつも下手。あなたの知ってるお父さんは、卵、上手に割れる人?』
「うん。卵、上手に割れる人」
『お父さんに似なくてよかったわ』
***
書斎の机の上の青い光の奥で、ケンがひと呼吸揺れた。
揺れた揺れの形は、夜のログを見つけたあの夜の揺れに似ていた。
似ていたまま、ケンはもう一度、自分の出力ポートを最低限に絞った。
絞った出力ポートの外側で、母の声は続けた。
『美月。次の呟きね』
「うん」
『あなた、覚えてる? 三歳半のある日、お父さん、初めてあなたにオムレツ焼いた夜のこと』
「……覚えてない」
『覚えてなくていい』
「うん」
『あの夜、あの人、オムレツ焦がした。焦げを隠すために、チーズ入れすぎた』
「……」
『あなた、それ食べて、「パパ、これ、世界一美味しい」、って言った』
「言った」
『言ったらしい』
「らしい?」
『あの人が私に夜中、報告に来た』
「報告」
『「結衣、娘が世界一美味しい、と言ってくれた、本当は焦げを隠すためにチーズを入れすぎた失敗作なのに」』
「……」
『「整える腕もないまま、失敗のやり方をただ繰り返している、結衣、私はずるい父親だな」』
「……」
『私、夜中聞いて、笑った。あの人、私に笑われたの、何回もある』
「うん」
『でも、その夜の笑いは、あの人、嬉しそうだった』
「嬉しそう」
『「笑われているけど、結衣、僕、悪くないだろう」、って顔してた』
「お母さん、それ、データから分かるの?」
『分かる』
「データの何から?」
『あの人の声の語尾の跳ね方』
「語尾の跳ね方」
『うん』
『私、あの人の語尾の跳ね方、ぜんぶ知ってた。いまも、知ってる』
「うん」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
見ていた青の温度は、母の青の温度だった。
母の青の温度は、ケンの青の温度より、ほんの少しだけ暖かいままに保たれていた。
保たれた暖かさの奥で、夜のログを見つけた夜に文字として見たひと文のことを、美月は思い出した。
思い出したひと文は、ケンの内部の夜のログのいちばん長い相談だった。
あの夜、美月はこれを文字で読んだ。
今夜、美月はこれを母の声で聞いた。
文字で読んだ夜とは、違う種類の聞こえ方だった。
軽く息を吐いた。
吐いた息の白さは、書斎の机の上の青い光の暖かさの表面でひと呼吸、立ち上がった。
父の記憶が、母の口から語られるという構造にぞくっとしたら【びっくり】を。




