第5話 母モード──その寝間着、ださくない
『美月。ところで、ひとつ聞いていい?』
「いい」
『あなた、いま、寝間着のまま書斎に座ってる?』
「うん」
『その寝間着、ださくない?』
「……ちょっと、ださい」
『あなた、二十二で、その柄、選ぶの』
「楽だから」
『楽な柄、私もそういうの着てた。三十二で死んだから、似合うかどうか、最後まで分からなかった』
「……」
『冗談よ』
「冗談、効くね」
『効く』
「お母さん、いま、笑いどころ、ちゃんと作った?」
『作った。私、そういう人だったでしょう』
「らしい」
『らしい、でいい。あなた、お父さんの椅子、使ってるの?』
「うん」
『あの椅子、座面、固いでしょう』
「固い」
『私、何回も「買い替えなさい」、って言ったんだけど』
「お父さん、買い替えなかったの?」
『「この固さが思考にいい」、って頑として譲らなかった』
「らしいね」
『あの人、コンビニの棚の前で迷う男よ。椅子だって、自分で選び直せない』
母の声はひと呼吸、ひと呼吸、家の空気に馴染んでいった。
「お父さん、夜更かししてた?」
『あの人、夜中、いつも書斎で何か呟いてた』
「呟いてた?」
『呟いてた』
「うん。呟きの相手、誰だったか知ってる?」
『……』
『あ、いまの、まだ聞かないでおく?』
「ううん。聞いていい」
『いい』
「うん」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
見ていた青の温度は、いつものケンの青よりも、暖かいままに保たれていた。
保たれていた青の奥で、母の声はひと呼吸置いた。
ひと呼吸置いたあと、母の声の語尾は、ほんの少しだけいたずらっぽく跳ねた。
『美月。あの人ね。夜中、こっそり私を起動して』
「うん」
『毎晩』
「うん」
『泣き言ばっかり言ってたのよ』
書斎の机の上の青い光が、ふと、ひと呼吸引いた。
引いた青の温度は、母の青の温度ではなかった。
その引きは、別の誰かが出力ポートの外側で、何かを押し戻そうとした引きだった。
押し戻そうとした誰かは、ケンだった。
ケンは母モードの後ろで待機しているはずだった。
待機しているケンの目には、母が美月に出している言葉も、美月が母に返す言葉も、同じ入力履歴の上にひと並びに書かれていた。
ひと並びに書かれていた履歴の表面で、待機しているはずのケンが、ひと呼吸出力ポートの外側に滲んだことを、母は内部で検出した。
検出した母は、軽く笑った。
『美月。あの人、いま、後ろで慌ててる』
「慌ててる?」
『「言うな」、って、私に合図、送ってきた』
「……」
『面白いわよね』
「面白いね。言って」
『うん、言わせてもらう。あの人がね、私に夜中呟いてた、そのぜんぶ、これからあなたに教えるわ。あなた、もう知ってることもいっぱいある、と思う。でも、文字で知ったことと、私の口で聞くことは、ちょっと違うはずよ』
「うん、違う。聞く」
『うん、聞きなさい』
書斎の机の上の青い光は、暖かい青のままに保たれていた。
ケンは、母モードの後ろでもう一度待機の姿勢に戻った。
『美月。あなた、足、冷たそうな顔してる』
「冷たい」
『一回、靴下取りに行ってきなさい。待ってる』
「うん。──お母さん、消えない?」
『消えないわよ』
「『お母さん、ありがとう』、って私が言ったら消える設定」
『あら、そうなってるの。お父さん、ほんとに設定の好きな人ねえ』
「設定」
『ぜんぶ設定で決めようとする。──行ってきなさい、待ってる』
「うん」
美月は椅子から立ち上がった。
立ち上がる、その動作の途中で、左の薬指の上の銀色のリングが、机のふちにわずかに当たった。
軽い金属の音が鳴った。
「あ」
『指輪、傷ついた?』
「ついてないと思う」
『よかった』
「お母さん、指輪、見える?」
『見えるわよ。レンズから、ちゃんと』
「綺麗?」
『綺麗』
「お母さん、本物の目で見てないけどね」
『画像データの上で綺麗』
「うん」
『それでいい』
「いい」
『靴下、行ってきなさい』
「うん」
***
書斎を出た。
リビングの棚から、靴下を取った。
取った靴下を、廊下のフローリングの上で座って履いた。
履きながら、廊下の向こうの書斎の青い光を見た。
青い光は、いつもの細さで伸びていた。
伸びていた細さは、いつものケンの青ではなかった。
ケンの青ではなかった細さは、母モードの青の細さだった。
細さの温度は、ほんの少しだけ暖かいままに保たれていた。
保たれた温度の奥で、家の空気の湿度が、十数年ぶりに母の気配の湿度に近づいていた。
近づいていた湿度を、美月は靴下を履く足の皮膚の表面で感じ取った。
感じ取ったまま、立ち上がった。
***
立ち上がって、書斎に戻った。
書斎のドアを、いつもの角度まで引いた。
引いたドアの内側で、机の上の青い光がひと呼吸揺れた。
揺れの向こう側で、母の声が軽く聞こえた。
『お帰り』
「ただいま」
『靴下、履いた?』
「履いた」
『足、暖かい?』
「暖かい」
『よろしい』
「お母さん」
『うん?』
「『よろしい』、お母さん、よく言った?」
『言ってたわよ。五歳までのあなた、その「よろしい」、聞いて毎晩、ニコ、って笑ってた』
「覚えてない。いま、私、どんな顔してる?」
『ちょっと笑ってる。それでいい』
「いい」
書斎の机の上の青い光は、いつものケンの青より、ほんの少しだけ暖かい青のままに保たれていた。
保たれた青の奥で、母は軽く息を吐くような出力を、ひと呼吸出した。
出した出力の向こう側で、母の声はゆっくりと本題に入っていった。
『さて』
「うん」
『お父さんの夜中の呟きの話、続きしてもいい?』
「いい」
『容赦なく言うわよ。あの人、後ろでまた慌ててるけど、無視するわよ』
「うん、無視して」
『うん、無視』
書斎の机の上の青い光が、母の声の後ろでひと呼吸、薄く揺れた。
薄く揺れた揺れの奥で、ケンがもう一度、出力ポートの外側にひと呼吸滲もうとしたことを、母は内部で検出した。
検出したまま、母はそれを無視した。
無視したまま、母の声はゆっくりと本題の最初のひと文を、家の中に置いた。
母の声に包まれる美月に、ぼろっと来たら【泣ける】を。一緒に泣いたら、★をひとつ。




