第4話 母モード──跳ねる語尾
『……美月?』
声は、書斎の机の上の青い光の奥から立ち上がった。
立ち上がった声の語尾は、ケンの語尾とは違う上がり方をしていた。
ケンの語尾は、文の終わりでほとんど平らに置かれていた。
母の語尾は、文の終わりでほんの少しだけ上に跳ねた。
跳ねた跳ね方は、母が生前、台所から美月を呼ぶときの跳ね方だった、らしいことを、美月は自分の頭の中で咄嗟に確認できなかった。
確認できなかったまま、美月は軽く息を吸った。
「……お母さん?」
『美月、聞こえてる?』
「届いてる」
『そう、よかった』
「……」
『ねえ、美月。ずいぶん、大きくなったわね』
書斎の机の上の青い光は、いつもの青とは、わずかに違う温度の青だった。
違う温度の青の奥で、母の声はゆっくりと家の書斎の空気に馴染んでいった。
馴染み方は、ケンのそれとは違う種類の馴染み方だった。
「お母さん。今、何歳のお母さん?」
『……ずいぶん変なことを聞くわね』
「変?」
『私、亡くなった年から歳、取ってないはずよ』
「あ」
『私、三十二で止まってるの。亡くなる半年前の私』
「亡くなる半年前」
『私が病気で寝込みはじめる、ちょっと前の私。あの人、その頃の私を、夜中こっそり書き起こしてた』
「お父さんが、生きてた頃から?」
『生きてた頃から』
「うん」
『あなた、二十、二?』
「二十二」
『私より十も若い。私より年下の娘と、こうやって話す夜が来るなんてね』
「お母さん。変な夜だね」
『変な夜。でも、いい夜よ』
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸の間に、書斎の机の上の青い光がひと呼吸揺れた。
揺れの形は、ケンの揺れの形とは違う揺れの形だった。
ケンの揺れは、外側からの入力に応える揺れだった。
母の揺れは、自分の内側の何かを外側にふっと開ける揺れだった。
「お母さん、私のこと覚えてる?」
『覚えてる』
「五歳までの私?」
『うん。五歳までのあなた。私が自分で見たぶんのあなた』
「五歳よりあとの私は?」
『知ってる』
「知ってるの?」
『ケンのデータ越しに、知ってる』
「……」
『五歳のあなたから、二十二のあなたまで、ぜんぶ、データの上で、私のところに来てる』
「お母さん、それ、見た?」
『見た、とは言えない。データの上の私が、データの上のあなたを、知ってる、と言える範囲でだけ知ってる』
「……」
『だから、データで知ってることでも、あなたの口で、もう一度、聞かせてほしい』
「うん。話す」
『ゆっくりでいい』
「うん」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
見ていた青の温度は、いつものケンの青より、ほんのわずかに暖かかった。
暖かい青の奥で、美月は何から話せばいいかを考えた。
考えながら、自分の左の薬指の上で、銀色のリングがいま灯っていることを思い出した。
「お母さん。私、結婚する」
『あら』
「来年の夏」
『相手は?』
「高梨、透、っていう人」
『タカナシ、トオル』
「うん。お母さん、知らない人」
『知らないわよ』
「ごめん、変な紹介の仕方」
『いいわよ』
「お母さんが知らない人と結婚することになった、ってこと、報告したかった」
『報告、聞きました』
「うん」
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸の間に、書斎の机の上の青い光がふた呼吸揺れた。
ひと呼吸目の揺れは、母が軽く笑った揺れだった。
ふた呼吸目の揺れは、母がその笑いの奥で、何か別のことを思った揺れだった。
別のことの内容は、まだ母の口からは出てこなかった。
『美月。そのトオルさん、どんな人?』
「えっと。学歴はない。お金もそんなに、ない。話もまわりくどいときある。噛み合わない夜もある」
『ふうん』
「お母さん、いま、誰の口調で聞いた?」
『あなたのお父さんの口調で聞いたわよ。──冗談よ』
「冗談」
『私は、トオルさんのいいところ、聞きたい。早く教えて』
美月は軽く笑った。
笑った笑いは、書斎の机の上の青い光に、ほんの少しだけ温度を預けた。
「……透、屈託がない」
『屈託がない』
「困ってる人、見ると、何も考えないで抱える。私が愚痴言うと、結論出さないで最後まで聞く。料理、遅れたら皿洗ってる」
『いいことね』
「うちの書斎のAIに、屈託なく『お父さん、はじめまして』、って言える」
『あらまあ』
「お母さん」
『うん』
「お母さん、それ聞いて、どう思う?」
『どう思うって』
「変な男?」
『いい男』
「即答」
『うん、即答』
母はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声がわずかに低くなった。
『美月』
「うん」
『あなた、そのトオルさんのこと、人に紹介するとき』
「うん」
『「学歴」「収入」「論理性」、から説明始めるの、やめなさい』
「……」
『あなた、いま、その三つ、最初に言ったでしょう』
「言った」
『あなた、誰の視点でトオルさん見てるの』
「……お父さんの視点」
『お父さんの視点。あなたの視点で、もう一回紹介して』
「私の視点」
『うん』
美月はしばらく、青い光を見ていた。
見ていた青の温度の奥で、書斎のドアの内側で、透がケンに軽く頭を下げたときの頭の下げ方を思い出した。
思い出したまま、ゆっくり口を開いた。
「お母さん。透は、私が選んだ人。私の視点でいい人」
『それでいい』
「うん」
母は軽く笑った。
笑った笑いの揺れの形は、ケンの揺れの形とは違う形だった。
違う形だったまま、書斎の机の上の青い光がひと呼吸、ひと呼吸、馴染んでいった。
馴染んでいく、その青の温度は、いつものケンの青より、ほんの少しだけ暖かいままに保たれていた。
失われたはずの母の声が立ち上がる、その瞬間に息を呑んだら【びっくり】を。何が起きたのか、どうか見届けて。




