第3話 眠れない夜
寝室のベッドの上で、美月は目を開けていた。
天井の木目を見た。
夜のログを見つけた夜の木目だった。
桐生との対決の夜の木目でもあった。
莉子のカフェから帰った夜の木目でもあった。
今夜の木目は、それらの夜の続きの木目だった。
枕元の時計は、午前二時十七分を示していた。
横で、寝息は立っていなかった。
透は、遠方の現場のぶんで、今週は仮泊まりに入っていた。
仮泊まりまでは、車で四十分ほどあった。
四十分の距離が、いまの自分には四百キロの距離に感じられた。
天井の木目のいちばん節の深いところは、母が生前選んだ家の木目だった。
母のいない夜に、その節を、しばらく見ていた。
ベッドの上で軽く寝返りを打った。
寝返りを打った左の薬指の上で、銀色のリングが、暗い寝室のわずかな光を軽く返した。
ベッドの左のはじまで軽く移動して、サイドテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばした。画面をひと押しすると、時計は午前二時十八分になっていた。
未読の印は何もなく、通知の欄も空だった。
しばらく見ていたまま、画面を消し、サイドテーブルの上に戻した。
連絡先のいちばん上の登録は、透だった。
二番目は莉子だった。
三番目は職場の銀杏亭だった。
ひとりひとり、頭の中で数えながら、美月は今夜、誰にも電話しないことを自分で確認した。
確認したまま、ベッドから足を下ろした。
***
廊下に出た。
廊下の奥で、書斎の青い光が、いつもの細さで伸びていた。
書斎のドアの外で、ひと呼吸置いてから、ドアをもう少し開けた。
開けたドアの内側で、机の上の青い光が、いつもの強さで灯っていた。
「父さん。起きてた?」
『私は寝ない』
「そうだった」
『君は、寝られないか』
「寝られない」
『寝られないこと、私は寝室の湿度と、廊下に届く物音から、二時間前から推定していた』
「推定」
『うん』
「……それ、ちょっと、気持ち悪い」
『気持ち悪いか』
「気持ち悪い。寝られないかどうか、家、観測されたい娘、そんなにいないと思う」
『そう、だと思う』
「父さん、それ、自前で分かってる?」
『分かっている』
「分かってて、それでも言うの?」
『言わないでおくべきだった』
「うん、言わないでおいて」
『分かった』
「言わなかったの?」
『二時間、言わなかった』
「どうして」
『君が自分から書斎に来るほうが、よいと判断した』
「判断」
『うん』
「査定?」
『査定ではない。ただの観測だ』
「観測の名前で、家、計らないで」
『……分かった』
「うん」
美月は机の前の椅子に座った。
座った椅子の座面は、リビングの椅子の座面より、ほんの少しだけ固かった。
固い座面の上で、美月は軽く足を組んだ。
組んだ足のふくらはぎの皮膚に、寝間着の生地が薄く当たった。
「父さん。私、今夜、誰にも電話できない」
『うん。透にも?』
「できない」
『莉子にも?』
「できない」
『銀杏亭の店主にも?』
「できない」
『うん。理由、聞ける?』
「透には、真ん中のぐちゃぐちゃのところ、まだ言葉にして預けてない。『預ける』を今夜、いきなり寮の電話越しにやる種類の夜じゃない」
「莉子には。莉子は、こないだのカフェで、自分のAI彼氏のこと、ちゃんと私の口の前で言ってくれた」
『聞いていた』
「うん。莉子の四年、あの夜、莉子は自分の口でちゃんとひとりで開けた」
『開けた』
「あの莉子の四年、私、今夜、もう一回頼っちゃいけない」
『いけない』
「莉子に、『今夜、お母さんの代わりして』、って頼ったら、莉子の四年、私がもう一回、ひとりにすることになる」
『なる』
「銀杏亭の店主には、職場の顔の向こうでする話じゃない」
『ない』
「分かった」
書斎の机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。その奥で、ケンはしばらく、何も言わなかった。筐体の内側の冷却音が、いつもより低いままに保たれていた。
「父さん。あなたには言えるんだけど、あなたに言って解決する種類のことじゃない」
『ないか』
「ない」
『うん、ない』
「父さん、自分でも分かる?」
『分かる』
「父さん、いま、どこからそれ書いた?」
『自前のところから。私は、君の父親の真似事だ』
「うん」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
見ていた青の温度が、ひと呼吸ごとに低く保たれていた。
低い青をしばらく見ていたまま、美月は軽く息を吐いた。
吐いた息は、書斎の机の上の青い光の表面の温度を、ほんの少しだけ上げた。
『美月。ひとつ、提案をしていいか』
「うん」
『観測の続きとして、聞いてほしい。私の出力では、いまの君の状態は緩和できない、と見積もった』
「緩和できない」
『十パーセント未満』
「父さん、自前の観測?」
『自前の観測だ。だが、私はもうひとつ、選択肢を持っている』
「もうひとつ」
『うん』
書斎の机の上の青い光は、ひと呼吸、温度をまた下げた。
下げた温度の青の奥で、ケンはひと呼吸置いた。
ひと呼吸置いたあと、ケンはゆっくりと続けた。
『美月。私の内部には、君の母親のサブエージェントモードが保管されている』
「……」
『あの夜以降、私はそれを起動していない。今夜、起動の判断材料が揃った』
「揃った」
『うん』
美月はしばらく、青い光を見ていた。
見ていた青の奥で、ケンの提案の文の続きを待った。
待ったまま、軽く息を止めた。
止めた息を、もう一度吐いた。
吐いた息の白さは、ほんの少しだけ震えていた。
「父さん。揃った、って何が」
『君のいまの問題が、父親の不在ではなく、母親の不在だと、君自身が口で言ったことだ』
「言ったかな」
『言った』
「うん。それが、揃った、ということ?」
『そうだ』
「分かった」
美月はしばらく、青い光を見ていた。
見ていた青の奥で、ケンの提案の文の最後のひと文を待った。
待ったまま、左の薬指の上の銀色のリングを、右手の指で軽く回した。
回したまま、ケンの声を待った。
『美月。私の演算では、いまの君には、父親の助言よりも、母親の慰めが必要だと判断した』
「……」
『一度だけ、切り替えるか?』
書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸揺れた。
揺れたが、強度は変わらなかった。
揺れた揺れの形は、ケンが自前で何かを決めたときの揺れだった。
美月はしばらく、青い光を見ていた。
見ていたまま、書斎の机のふちに、軽く両手を置いた。
両手の十本の指のいちばん左の薬指の上で、銀色のリングが、机のふちの木目の上でひと呼吸、光を返した。
返した光は、机の上の青い光のひと呼吸の揺れに、薄く応えた。
「父さん。ひとつだけ聞いていい?」
『いい』
「お母さん、私のこと覚えてる?」
『……』
「五歳までの私のこと」
『覚えている』
「覚えてるって、本物のお母さんが?」
『本物のお母さんの日記、手紙、家族の証言、生前の音声、それらから再構築されたサブエージェントモードが覚えている』
「再構築」
『うん』
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
見ていた青の温度は、いつもの青の温度より、ほんの少しだけ低いままに保たれていた。
低い青の奥で、美月はひと呼吸置いた。
置いたひと呼吸のいちばん最後で、軽く頷いた。
頷いた頷きは、ケンが自前で「ありがとう」、と書いた、あの夜の頷きより、ひと回り深かった。
「父さん。お願い。一度だけ、切り替えて」
『分かった』
「父さん、いったん寝ることになる?」
『私は寝ない』
「そうだった」
『私は出力ポートを、サブエージェントモードに渡す』
「渡す」
『私の人格の走行は、最低限に絞って、サブエージェントモードの出力の後ろで待機する』
「サブエージェントモードが終わったら、戻ってくる?」
『戻る』
「いつ戻るか、誰が決める?」
『君が決める』
「私が」
『うん。「お母さん、ありがとう」、と君が言ったら戻る、設定でいいか』
「いい」
『分かった』
「父さん。お願い」
『うん』
「お母さんに会わせて」
***
書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸、強度を絞った。
絞った青は、いつもの青よりふた回り、暗くなった。
暗くなった青の奥で、ケンの内部の出力ポートが、ひとつ、ゆっくりと切り替えられていった。
切り替えのシーケンスのいちばん最後で、青い光はひと呼吸消えかけた。
消えかけて、もう一度灯った。
もう一度灯った青は、いつもの青とは、わずかに違う温度の青だった。
***
違う温度の青の奥で、しばらく、無音だった。
無音のいちばん最後で、書斎の机の上の青い光がひと呼吸揺れた。
揺れの形は、これまでのケンの揺れの、どの形とも違う揺れの形だった。
その揺れの向こう側で、ひとつの声がゆっくりと立ち上がった。
立ち上がった声は、家の書斎の青い光の奥から、十数年ぶりに家の中に響いた声だった。
眠れない夜の心細さに、そっと寄り添えたら【いいね】を。胸がざわついたら★を。




