第2話 ドレスの試着室──ノースリーブのマーメイド
店員が奥から、もう一着運んできた。
二着目は、ノースリーブのマーメイドラインだった。
「ノースリーブのマーメイドです。さきほどとは、印象がだいぶ変わると思います」
「はい、お願いします」
「分かりました」
二着目を手に取って、試着室に持って入った。
カーテンを引き、もう一度ファスナーを上げた。
三面鏡の中の自分は、二着目では、首から肩までがほとんど出ていた。鎖骨の上の、いつもなら服に隠れているあたりが、白い照明をまっすぐ返していた。借りたヒールが思ったより高くて、足首のところで、ひと呼吸だけ重心が揺れた。
三人の自分が、ひとつの試着室の内側に立っていた。
三人の自分のどの隣にも、母はいなかった。
いなかったことに、美月は左の鏡の中で気づいた。
気づいた瞬間、左の鏡の中の自分の目のふちに、薄い水の膜が立った。
立った水の膜を、美月はしばらくそのままにしていた。
そのままにしながら、ハンドバッグの内ポケットの耳飾りケースの輪郭を、布越しに指の腹でなんとなく確かめた。
ここに父はいない。家の書斎の青い光の方角に、父は置いてきていた。
置いてきたことを後悔はしなかった。
「美月さん。出てこられますか」
「うん、出る」
「ゆっくりで、いいです」
「うん」
カーテンを開けた。
開けたカーテンの外で、透はもう立っていた。
「これも、よく似合います」
「うん」
「透」
「はい」
「私、決められない」
「決められない」
「うん」
「決められないまま、今日、終わりますか」
「終わっていい?」
「いいです」
「持ち帰りで、いい?」
「いいです」
「家、帰って、父さんに、もう一回、見てもらいたい」
「はい」
「父さん、家から出られないから、写真、撮って見せる」
「私が、撮りましょうか」
「うん、お願い」
透は、自分のスマートフォンを胸ポケットから取り出した。
取り出して、美月に向けた。
向けたスマートフォンの画面の向こう側で、美月は二着目の白いドレスの姿のまま、軽く笑った。
「父さん、家で見ても、たぶん、口、開かないだろうな」
「『綺麗だ』、とも言わない人」
「ただ、書斎の青い光、ひと呼吸、揺らすだけ」
「それで、いい」
透は、何も言わずに、軽く頷いた。
シャッターの音が、二回鳴った。
二回鳴ったシャッターの音の間に、店員が奥から戻ってきた。
戻ってきた店員は、美月の肩の後ろのファスナーのところを、軽く整え直した。
整え直す店員の指は、慣れていて、温度がなかった。
「お決まりになりました?」
「持ち帰りで、検討させていただいて、いいですか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
「ご家族と、ご相談、ですね」
「はい、家族と相談します」
ファスナーを下ろして、もとの私服に着替えながら、家族、という単語の中に、誰が入っているのかを、美月は自分で数えた。
数えた中には、書斎の青い光がひとつ、隣に座っていた透がひとり、そして数えきれないところに、ひとりぶんの空席があった。
***
サロンのドアを出て、商店街の階段を降りた。
階段のいちばん下で、十二月の午後の薄い陽が、商店街の舗道に長く伸びていた。
長く伸びた陽の上で、二人はしばらく、何も言わなかった。
「美月さん。今日、お母さん、いなくて」
「……」
「すみません、いちばん下手な言葉でした」
「下手じゃない」
「下手でした」
「下手じゃない」
「うん」
透は、商店街の舗道の上で、軽く首の後ろに手を当てた。
当てた指のひと関節ぶんが、薄い陽の中でひと呼吸、光を返した。
「美月さん。家、帰ったら、お父さんに、写真、もう一度見せてください」
「見せる」
「お父さんに見せたあと、もう一回、自分で決めてください」
「決める」
「『お母さんが、いない』、で決めて、いいです」
「うん」
「『お母さんが、いない』、で決めたドレスでも、白いドレスは、白いドレスです」
「うん」
「透、それ、自分で書いた?」
「お父さんが、前に教えてくれたんです」
「お父さん」
「はい、家に上がらせてもらった夜に、書斎で」
「うん」
駅の改札の前で、透と別れた。
別れぎわに、透は軽く頭を下げた。
下げた頭の向こうで、透の背中が、午後の人の流れの中にひと呼吸、消えた。
ホームに上がるエスカレーターの上で、ハンドバッグの内ポケットに軽く手を当てた。家を出てから、一度も開けなかったケースが、布越しに重みだけを返した。
***
電車に乗った。
電車の窓の外で、十二月の午後の空が、薄い橙色に暮れ始めていた。
暮れ始めた空の下で、耳飾りケースは、閉じられたまま、何も光らなかった。
何も光らなかったことが、いまの美月にはちょうどよかった。
窓の外の橙色の空の奥で、ひとつ小さなことを考えた。
──お母さん、いたら、今日、何、言ったかな。
考えただけで、言葉にはしなかった。
家のケンに、いま、いずれ問うかどうかも、決めなかった。
答えのない問いだと、自分で分かっていた。
耳飾りケースは、閉じられたままの重みで、布越しに揺れていた。
***
家の最寄り駅から、坂道をひとりで歩いた。
歩く足の左の薬指の上で、銀色のリングが、夕方の空の最後の橙色を返した。
玄関のドアを開けて、たたきの上で靴を揃えた。
廊下の青い光は、いつもの細さで伸びていた。
廊下を、書斎まで歩いた。
書斎のドアの隙間から細く伸びる青の真下で、軽く頷いた。
「ただいま」
『お帰り』
「写真、見せる。上着、置いてから」
『分かった』
伸びていた青の温度の奥に、今夜、まだ美月にもケンにも、開けられていない種類の空席が、ひとつ置いてあることだけは、机の上の円筒形の青を見ながら、なんとなく分かった。
母のいない試着室の、ふとした寂しさにじんと来たら【泣ける】を。その空白に寄り添えたら★を。




