第1話 ドレスの試着室──ブライダルサロンの看板
商店街の二階の、古いカフェのすぐ上の階に、ブライダルサロンの看板が出ていた。
看板の文字は、白地に薄い桃色の明朝体だった。
美月は、商店街の舗道の上で看板を見上げた。隣で、透も同じ角度で見上げていた。
「ここの下の階、莉子の店なの」
「そうなんですね」
「打ち合わせのとき、莉子の店から出て、上の看板に気づいた」
「なるほど」
「莉子と関係なく、ここのドレスがいちばん好みだった」
「分かりました」
***
サロンのドアを押して入った。
入ると、奥から四十代くらいの女性の店員が出てきた。
店員は、美月の顔と透の顔を、一度ずつ見た。
「ご新郎様と、お二人で?」
「はい」
「ありがとうございます」
「お父様、お母様は、後日ご一緒に?」
美月の声が、半拍遅れた。
その半拍の遅れの内側で、透が小さく、自分のジャケットの裾に手を置いた。
置いただけで、透は何も言わなかった。
「両親とも、出席しません」
「……失礼しました」
透は、店員に向かって軽く頭を下げた。
下げてから、美月の半拍後ろの位置に、もう一度静かに立った。ジャケットの裾に置いたままの手の指が、ひと呼吸ぶん、わずかに固くなっていた。
店員は奥の試着室のカーテンを、軽く引いた。
カーテンの内側には、三面鏡が立っていた。
三面鏡の左右の鏡は、わずかに内側に傾いていて、正面の鏡と合わせて三方向から、自分が自分を見られるようになっていた。
美月は案内された椅子に座って、カタログをめくった。
透は、隣の椅子に座って、同じカタログをもう一冊、自分の膝の上で開いた。
カタログのページの欄外の写真には、若い花嫁と若くない女性が、同じフレームの中で写っていた。
美月はその写真を自分のページの上でしばらく見て、隣の透のページの欄外を、視野のすみで確かめた。
透のページの欄外にも、同じ写真が並んでいた。
透は自分の目でそれを見て、何も言わずに次のページをめくった。
ハンドバッグの内ポケットの中で、薄い樹脂の耳飾りケースの輪郭が、布越しにかすかに浮いていた。家を出るとき、書斎のケンに「行ってくる」とだけ声をかけて、ケースは持ったまま外に出た。サロンの椅子の上で、美月はハンドバッグの上に軽く手を置いた。ケースは閉じたまま、ふだんの重みでそこにあった。
透は、自分の膝のカタログを軽く閉じた。
閉じてから、美月のハンドバッグの方向に、軽く頭を下げた。
「お父さん、いまは届いていないと思うんですけど、お久しぶりです、と」
「うん」
「家、帰って、私の口から、ちゃんと伝えるね」
「お願いします」
店員が、最初の一着を運んできた。
レースの長袖のAラインだった。
「定番のシルエットです。長く好まれている形なので、最初の一着としてお試しいただきやすいと思います」
「そうですか」
「肩、隠れる形からの方がお好みでしたら、こちらから始められて大丈夫です」
「分かりました」
美月はレースの長袖を、試着室の内側に持って入った。
カーテンを引いて、ファスナーを上げた。背中側の最後のところで、指が届かなくなった。店員がカーテンの隙間から手を入れて、肩甲骨の下のあたりを、外側から留め直した。慣れた他人の指の温度が、薄い生地越しにひと呼吸だけあって、すぐに離れた。
三面鏡の正面にも、左右にも、白いドレスを着た自分が立っていた。
三人の自分が、ひとつの試着室の内側に立っていた。
美月はしばらく、三人の自分を順番に見ていた。順番に見ながら、夜のログを見つけた夜の、書斎の青い光を、なぜか思い出した。
正面の鏡の中の自分の左の薬指の上で、銀色のリングが、試着室の白い照明をひと回り返した。
「美月さん。出てこられますか。ゆっくりで、いいです」
「うん」
カーテンを開けた。
カーテンの外で、透がカタログを膝の上に置いたまま座っていた。
座っていた透は、立ち上がった。
立ち上がって、しばらく何も言わなかった。
「透」
「……」
「何か言って」
「待ってください」
「待つ」
「いま、私、自分の語彙の中で、いちばんいい言葉を探しています」
「うん、探していい」
「うん」
探し終わった透は、軽く息を吐いた。
吐いた息で、カタログのページの端が、わずかに揺れた。
「綺麗です」
「綺麗」
「綺麗です」
「ありがとう」
「お父さん、いま、見えてないですよね、ここ」
「うん。見えてないと思う」
「家、帰ったら、写真で、ちゃんと」
「うん。家、帰ってから」
「ここから先は、私と透の時間でいい?」
「うん」
「父さんも、たぶん、それを望んでる」
「うん」
結婚へ進んでいく美月の高鳴りに【にこにこ】を。晴れの支度に、★をひとつ。




