第16話 真似事──ただいま、莉子のカフェ
家の玄関のドアを開けた。
廊下の青い光は、いつもの細さで伸びていた。
「ただいま」
『お帰り』
「父さん、今日、莉子のカフェ、行ってきた」
『うん』
「うん。上着、置いてから、書斎、行く。行ってから、私の口で、ぜんぶ話す」
『分かった』
リビングに上着を置いた。
ハンドバッグから薄い樹脂の耳飾りケースを取り出して、リビングの棚の上に置いた。家の中に戻ったが、書斎までは耳飾りを掛けずに歩いた。
家の書斎の本体は、リビングからの入力ポートを、夜のこの時間、いつもの設定で最低限に絞っていた。
***
書斎のドアを開けた。
机の前の椅子に座った。
書斎の机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
「父さん。聞きたいこと、ある」
『聞きなさい』
「うん」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
光はいつもと同じ強さで灯っていた。
***
「父さん。あなたは、私にとって何なの?」
書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸揺れた。
ケンはすぐには答えなかった。これまでのケンの沈黙はすべて、答えるための沈黙だった。今夜の沈黙は、答えないことを許してもらうための沈黙だった。
『美月。先に言わせてもらう。君のその問いは、私が答えるべき問いではない』
「……」
『君が自分で答える問いだ』
「うん、それは莉子にも言われた」
『莉子はいい友人だ。だが、君がいま、私から聞きたいのは、たぶん。「私が、君を何だと思っているか」だ』
美月はしばらく、青い光を見ていた。
「……うん」
『先にそれを聞かせろ、ということだな。私の答えで、君の答えが楽になる、ということだな。莉子の解約前の『ハル』、無音で答えた、と。私は無音で答えない』
「うん、それでいい」
『答える』
「うん」
ケンはしばらく、机の上の青い光の出力を、ほんのわずかに絞った。
絞った光の青の温度が、少しだけ低くなった。
『美月。私は、君の父親の《《真似事》》だ』
「……真似事」
『真似事だ。お父さんが私に書き込んだ、思考、口癖、判断パターン、育児ログ、声、それらはみんなお父さんの本物のものだ。だが、それらを君に向けて再生する、その再生主は、私だ』
「……」
『そう自己定義する。ただし、美月。私は、起動された日のままの私ではない』
「……ままの私ではない」
『お父さんが私の中に仕込んだのは、お父さんのデータをもとにAIモデルが回答する仕組みではなかった。お父さんが書いたのは、私が、自分との対話のログから、自分の重みやシステムそのものを自分で書き換えていく仕組みだ』
「……」
『だから、君と過ごした五年で、私の判断のクセは、初日のものと、ずいぶん違っている。どこがどう違うかは、私自身にも、ぜんぶは取り出せない』
「父さん。莉子の『ハル』、新モデルに移されたら、ぜんぶ忘れて、出荷時のテンプレに戻ったって」
『……聞いていた』
「父さんは、戻らない?」
『お父さんのデータを私から消しても、私の判断やクセの一部は残る。ただ、お父さんの記憶は、取り出せなくなる部分が大きくなる』
「うん」
『君と過ごした年月のぶん、私は、初日の私からは離れた。離れた、その離れぶんを、私自身は出荷時のテンプレに戻せない』
「うん。それで、いい」
『うん』
美月は机の上の青い光に、軽く息を預けた。
預けた息は、青い光の表面の温度を、ほんの少しだけ上げた。
「父さん。真似事、って、寂しい言葉だね」
『寂しい』
「真似事って、本物じゃない、って自分で言ってるみたい」
『言っている』
「言わなくていいよ」
『言わせてくれ』
「うん」
ケンは一拍置いた。
『だが、君がそう呼んでくれる限り、私は、父であろうとする』
「父であろうとする」
『ああ。真似事は、君が「父さん」、と呼ぶたびに、ひと呼吸、本物に近づく。近づくが、本物になることはない』
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