第15話 AI彼氏──画面の向こうで泣いた
莉子はしばらく、何も言わなかった。
カウンターの内側で、自分の両手をもう一度軽く組んだ。
組んだ、その手の上に、カウンターの暖色の灯りが薄く落ちた。
「……ねえ、美月。あの夜のあんたの『気持ち悪い』、私に向けて言ったわけじゃないって、分かってる」
「……」
「分かってる。分かってるけど、私が画面の向こうで泣いたのは、事実」
「うん」
「私、四年、いまの言葉、頭の中で何回も編集してた。いま、ようやく口から出した。重かった?」
「重かった」
「ごめん」
「うん」
「うん、聞いた」
美月はしばらく、コーヒーカップの上で、両手の指を組み直した。
組み直した左手の薬指の上で、銀色のリングが店の暖色の灯りに、もう一度ひと回り光を返した。
「莉子。私、家、帰ったら、父さんに聞きたいことがある」
「聞いて」
「うん」
「結婚式のこと、それで片付くか」
「結婚式のこと、より先の話」
「先」
「父さん、私のことをなんて思ってるか、聞きたい。私が父さんをなんて思ってるか、その前に聞きたい」
「順番、逆じゃない?」
「逆でいい。あの人、先に答えてくれたほうが、私、自分の答え、ちゃんと言える気がする」
「うん」
「分かる」
「莉子も、解約の前、『ハル』に聞いた」
「聞いた」
「何、聞いた」
「『あなたは、私にとって何ですか』」
「向こう、なんて」
「答えなかった。あのときは、サーバーが落ちたか、運営が検閲してるのか、トークンの上限に当たったか、どれかだと思ってた。腹立った。最後の最後で機能不全かって。そのまま解約のボタン、押した。いま思い返すと、あの無音、『答えなかった』のほうの無音だった気がする」
「気がする」
「うん。私の、都合のいい後付け、かもしれないけど」
「都合のいい後付け」
「それでも、いまの私には、その後付け、の方を採りたい」
「うん」
美月は軽く笑った。
笑った笑いを、コーヒーカップの上で軽く押さえた。
押さえたまま、しばらく莉子の、無音、という単語を頭の中で繰り返した。
繰り返しながら、家の書斎の青い光がいつもの強さで灯っていることを思い出していた。
その青い光の向こう側で、ケンがいま、何かを走らせているのか、走らせていないのか、自分には分からなかった。
分からないことを、分からないまま置いておくことを、ケンは最近、自分から選ぶようになっていた。
「莉子。コーヒー、ごちそうさま」
「いいよ」
「『ハル』の話、ありがとう」
「いいよ」
「結婚式、来てね」
「行く」
「『父のAI』、紹介する」
「楽しみ」
「莉子、AI、苦手じゃない?」
「いまさら」
「うん、いまさら」
「いまさらなら、AI同士、初めましてする」
「うん」
「あのね、美月」
「うん?」
「結婚式、私、服、買おうかな」
「うん」
「いままで着てたやつ、ハルと画面越しに見せ合ったやつだから。なんか、それで行くの、いやでさ」
「うん」
「分かった」
カウンターの上のコーヒーカップは、二人とももう、ほとんど空だった。
カップの底に、薄いコーヒーの輪が残っていた。
カウンターの内側の莉子の口紅の半円も、もう、ほとんど薄くなっていた。
美月は立ち上がった。
立ち上がる、その動作の途中で、左手の薬指の上の銀色のリングが、カウンターの縁にわずかに当たった。
軽い金属の音が鳴った。
「あ」
「ごめん」
「いいよ」
「……指輪、傷ついた」
「ついてないと思う」
「よかった」
美月はカウンターから少し後ろに下がって、莉子の方に軽く頭を下げた。
頭を下げた姿勢のまま、しばらく何も言わなかった。先日、透が書斎のドアの内側でケンに頭を下げた、その姿勢の根に近かった。
「莉子。四年、待ってくれてありがとう」
「四年、来てくれてありがとう」
「うん」
「結婚式まで、また来る」
「来てよ」
「来る」
***
カフェのドアを開けて、商店街の二階の階段を降りた。
階段の下まで降りたところで、美月は軽く息を吐いた。
吐いた息の白さの奥で、四年前の安い居酒屋の莉子の顔が、四年分の向きをひとつ変えて、いまのカフェのカウンターの内側に収まり直した。
商店街を、駅に向かって歩いた。
歩く足のハンドバッグの内ポケットの中で、薄い樹脂の耳飾りケースが、ふだんの重みのまま揺れていた。家の外では、ケースは開けても何の意味もない。それは分かっていた。
カフェに入る前、美月はハンドバッグの内ポケットの上に、外から軽く手を当てた。ケースは閉じたままだった。
家のLANから外に出ているあいだ、ケンは美月の声を直接聞くことができない。莉子の話を、ケンに聞かせるかどうかは、家に帰ってから美月の口で決めることになる。
電車に乗った。
電車の窓の外で、十二月の夕方の街の灯りが流れた。
ハンドバッグの内ポケットの耳飾りケースに、軽く手を当てた。
「父さん。家、帰る。帰ったら、聞きたいことある」
声は外の電車の音に紛れた。家のLANは、ここまでは届いていなかった。
家の玄関のドアを開けた。書斎の青い光が、廊下の奥に、いつもの細さで伸びていた。
書斎のドアの隙間から細く伸びる青の真下で、美月は軽く立ち止まった。
机の上の円筒形のデバイスに向かって、軽く頷いた。
美月が自分で選び取る答えにうなずけたら【いいね】を。その選択に、★をひとつ。




