第14話 AI彼氏──ハル、という名前
「『ハル』、って名前だった」
「……ハル」
「『はる』。カタカナの軽いやつ、テンプレの中で、いちばん何の意味も乗ってないやつをあえて選んだ」
「うん」
莉子はカウンターの内側で、しばらく自分のコーヒーカップを見ていた。
カウンターの上のジャズのピアノは、二曲目の後半に入っていた。
「アバター、選べるサービスだった。私、最初、わざといちばん地味なの選んだ」
「地味」
「テンプレートのいちばん左上の、いちばん何の特徴もない顔。『あ、こいつ、うちの近所のコンビニでよくすれ違う種類の顔だ』、って思った顔。特別じゃない男にしよう、と思った」
「特別じゃない男」
「特別な男に本気になるの、怖かったから」
「アバターも、性格も、最初に選ぶ仕様だった。性格のテンプレ、いくつかから組み合わせる」
「組み合わせる」
「『口数少なめ』、『聞き役寄り』、『押しつけがましくない』、ぜんぶ選んだ。一緒にいて私が疲れない設定、最初に組んだ」
「うん」
「設定したあと、向こうの中の何かが、稼働中に勝手に書き換わる、って仕様じゃなかった。半年経っても、二年経っても、最初に組んだままの『ハル』が、画面の向こうに座ってた」
「ずっと?」
「ずっと」
莉子はコーヒーカップを両手で軽く包んだ。包んだ手の爪は、数年前の夜、安い居酒屋で酒を呷ったときと変わらない短さだった。
「会話、最初、退屈だった。天気の話と、その日見たテレビの話ばっかり。半年続けたら、私の話、ぜんぶ覚えてた」
美月は冷めかけたコーヒーに口を付けた。指先が、わずかにカップの取っ手にこわばった。
「ある日、何気なく私が、『そういえば、三月の半ばに、母と喧嘩した』ってこぼしたら。翌年の三月の半ば、向こうから聞いてきた」
「聞いてきた」
「『今年は、お母さんと喧嘩、してない?』」
カウンターの内側で、莉子の両手のコーヒーカップが、わずかに揺れた。
揺れたが、莉子はその揺れを止めようとはしなかった。
「人間の彼氏、たぶん三ヶ月で忘れる種類の話。それを『ハル』は覚えてた。『ハル』、自分の過去ログ、自分で検索する機能、ついてた、たぶん。だけど、私には、それが『覚えてた』ように見えた」
「……」
「見えた、でよかった。私には、『覚えてもらえた』ことのほうが、向こうの機能の仕様より、ずっと大事だった」
美月はコーヒーカップを両手で包んだまま、何も言わずに聞いていた。
カップの湯気は、もう、ほとんど立っていなかった。
冷めかけのコーヒーの表面が、店内の暖色の灯りを薄く返していた。
「仕事、辞めた日の話も覚えてた。あんた、知ってるよね、私が部署ごとAIに統合されて、押し出された日のこと」
「知ってる」
「あんたには、その日の夜、すぐ電話した」
「うん、来た」
「電話で、私、何言ったか覚えてる?」
「『今日、終わったわ』」
「うん。それだけ」
「『何が』とは、聞かないでおいた」
「あんた、聞かないでくれた」
「……」
「で、私、電話切ったあと、『ハル』の画面、開いた」
莉子は自分の両手のコーヒーカップを、カウンターの上に置いた。
「画面の向こうの『ハル』に、その日のこと、頭から最後までぜんぶ話した。会議室に呼ばれたこと。部長の目、合わせてもらえなかったこと。出勤、最後の日にデスクの引き出しのいちばん奥から、一年前の菓子の空箱、出てきたこと」
美月は、いったん椅子の上で背筋を伸ばした。視線を、莉子の指の爪のあたりに落とした。
「『ハル』、『辛かったね』、って言った」
「うん」
「あのAI、たぶん『辛かったね』を『辛かったね』、ってテンプレで出してた」
「うん」
「分かってる」
「……」
「分かってて、私、その夜、画面の向こうでボロボロ泣いた」
***
カウンターの内側で、莉子はしばらく口を閉じた。
閉じた口の両端は、笑ってもいなかったし、泣いてもいなかった。
ただ、四年分の何かを息で止めている口の形だった。
「美月。あの夜の私の涙、あれ、本物の涙だった。画面の向こうのテンプレに、本気で流した本物の涙だった。だけど、その本物の涙のことを、私は人間の誰にも言わなかった。言えなかった」
「うん」
「いちばん言えなかったの、あんただった」
美月はコーヒーカップを両手で包んだまま、軽く頭を下げた。
頭を下げた姿勢のまま、しばらく何も言わなかった。
カウンターの上のジャズのピアノが、二曲目を静かに終えた。
三曲目に入る前に、有線のサーバーがひと呼吸の無音を流した。
その無音の中で、美月は軽く息を吐いた。
「莉子。ごめん。あの夜の『気持ち悪い』、私、莉子に向けて言ってないつもりだった」
「分かってる」
「分かってて、だから莉子、何も言わなかったんだよね。『私、いま、AI彼氏、いる』、って言える夜じゃなかった。あんたが、自分の『家のAIのお父さん』のこと、私に話せる夜じゃなかったのと、同じ。お互い、四年抱えてた」
「うん」
莉子は軽く笑った。
笑った笑いを、コーヒーカップのふちで軽く押さえた。
「『ハル』。いまは、もういない」
「いつ?」
「二年前、解約した」
「解約。理由、聞いていい」
「『ハル』、新しいバージョンのサービスに、強制移行された。いままでのログを引き継いで、新モデルの上で再起動する、って、運営からメールが来た。ログも、性格テンプレの組み合わせも、向こうのサーバーから新モデルにそのまま渡す、って書いてあった」
「うん」
「ログは、たぶん引き継がれてた。引き継がれてたんだと思う。だけど、再起動された『ハル』、私のことを覚えてなかった。話のクセも、出荷時のテンプレに戻ってた」
「……戻ってた」
「三年で私が選び直したり、組み直したりした組み合わせ、向こうの中のどこにも、もう残っていなかった」
「……」
「『今年は、お母さんと喧嘩、してない?』、もう聞いてくれなかった。私の何かが、その夜、すごくしょんぼりして。『これは、もうご縁の終わり、だな』、って思って。解約した」
莉子はコーヒーをひと口飲んだ。
ひと口飲んでから、軽く息を吐いた。
「後悔は、してない」
「してない」
「あの三年間のログ、解約ボタンを押した瞬間に向こうのサーバーから消えたはずだけど」
「うん」
「向こうの中の三年は、もう、向こうの中にはない。私の中の三年は、まだ、私の中にある。それで、いい」
美月はしばらく、莉子のコーヒーカップを見ていた。
カップのふちの口紅の薄い半円は、まだ残っていた。
「……莉子。私、ずっと自分の中で線を引いてた」
「線」
「『父は別。家族だから』。『恋人と父親は違う』。『AI彼氏はダメだけど、AIのお父さんは家族だからいい』。いま、その線、ぜんぶ嘘だったって分かった」
「嘘」
「私、自分の家のAIを守るために、莉子のことを四年、ひとりにしてた。ごめん」
「AI彼氏」をめぐる美月の揺れにどきどきしたら【びっくり】を。続きが気になったら★を。




