第13話 莉子への相談
婚約からひと月ほどが過ぎた。
十二月の半ばだった。
街は、年末の灯りに変わっていた。駅前の街路樹には、白い電飾が巻かれて、夜の空気の中で薄く揺れていた。
美月は銀杏亭の定休日の午後、莉子のカフェにひとりで寄った。
***
莉子のカフェは、駅から少し外れた古い商店街の中の二階にあった。
階段を上がってドアを開けると、店の中は暖色の灯りで満たされていた。
カウンターの奥で、莉子はコーヒー豆を挽いていた。
「いらっしゃい。珍しいね、平日の午後」
「定休日」
「席、空いてるとこ座って」
「うん」
カウンターのいちばん奥の席に座った。
その席は、莉子といちばん近い距離で話すことのできる席だった。
莉子はコーヒーを二杯淹れた。
一杯を美月の前に置いた。
もう一杯を自分のぶんにして、カウンターの内側で軽く口を付けた。
「で、何の用」
「何で、用ありきって決めつけるの」
「あんた、定休日の午後に私の店に、ひとりで来ること、滅多にない」
「……」
「四年で、たぶん三回目」
「そう?」
「そう」
美月はカップを両手で軽く包んだ。
包んだ左手の薬指の上で、銀色のリングが、店の暖色の灯りにひと回り光を返した。
「あ、それ」
莉子はコーヒーカップを、カウンターの上に置いた。
「うん」
「いつ?」
「先月」
「うん」
「相手、今度紹介する」
莉子はしばらく、美月の左手の薬指の上の銀色を見ていた。
それから自分のコーヒーカップに目を戻して、もうひと口飲んだ。
「結婚式はするの?」
「する。来てくれる」
「もちろん」
「いつ?」
「来年の夏、たぶん」
「夏」
「うん」
美月はしばらく、自分のカップの湯気を見ていた。
湯気は、カウンターの内側の暖色の灯りの中で、ゆっくりと立ち上っていた。
「莉子」
「うん」
「相談、ある」
「だから、ありきって言ったでしょう」
「うん」
「言って」
美月はひと口、コーヒーを飲んだ。
「結婚式、ね」
「うん」
「『父からのスピーチ』の時間、入れたい」
「お父さん、五年前、亡くなったよね」
「うん」
「ご親族の誰かに代わりに」
「ううん」
「じゃあ、ビデオレター」
「ううん」
「じゃあ、何」
「父のAI」
***
莉子はコーヒーカップを、カウンターの上に戻した。
しばらく自分の両手をカウンターの上で軽く組んだまま、何も言わなかった。
カフェの店内には、有線のジャズのピアノが薄く流れていた。
「……ねえ、美月。いるの。家に」
「うん。書斎に」
「ずっと」
「葬式の翌朝から、ずっと」
「五年」
「五年とちょっと」
「私に言わなかった。言わなかった理由、聞いていい」
「うん」
美月はしばらく、自分のコーヒーの湯気を見ていた。湯気の向こうに、莉子の顔が薄く立っていた。
「四年前、安居酒屋で、莉子、『画面の向こうの作り物に、本気になるって、正直キモい』って言った」
「言ってた」
美月はカップを両手で、もう一度軽く包み直した。
「あの言葉を聞いた夜から、私、莉子に家のAIの話、出来なくなった。だって、家、帰ったら、書斎でAIに『お父さん』って呼んでた。自分で自分の矛盾、ずっと胃の中で煮てた」
「煮てた」
「莉子に見せると、自分の矛盾が、莉子の口からツッコミとして戻ってくる気がして。だから四年、言わなかった。ごめん」
莉子はしばらく、何も言わなかった。
コーヒーカップのふちに、軽く指を当てた。
指の爪は、短く切られていた。
「……美月」
「うん」
「あんた、よく言えたね」
「うん?」
「待ってた、っていうのとは、ちょっと違うかな。たぶん、ずっとちょっと、ずるいなって思ってた」
「ずるい」
「私には『AI彼氏』って笑いながら、自分は家でAIに『お父さん』って呼んでるんでしょ、って」
「……うん」
「四年、ね。今日、それがやっと釣り合った」
莉子は軽く笑った。
笑った笑いを、自分のコーヒーカップの上で軽く押さえた。
「呼ぶよ」
「結婚式」
「うん」
「『父のAI』、スピーチ、出すんだよね」
「出すか、迷ってる」
「出して」
「いいの」
「『父のAI』のスピーチを聞きに行く結婚式って、たぶん、私、これから一生、もう二度と出る機会、ない」
「……」
「出して」
「分かった」
美月はカップをひと口飲んだ。
飲み終わってから、軽く頭を下げた。
「ありがとう」
「いいよ」
「迷ってた」
「迷う、と思った。ねえ、美月」
「うん?」
莉子はカウンターの内側で、自分の両手をもう一度軽く組み直した。
組み直した両手の上で、ひと呼吸置いた。
「『父のAI』のこと、相談したかったの、それだけ?」
「えっ」
「『私に言わなかったことの謝罪』、それも込み?」
「……」
「両方とも聞いたけど。私、もうひとつ聞きたい。あんた、自分の家のお父さんのAIのこと、いま、自分の中でなんて説明しているの」
「説明?」
「『父』なの? 『道具』なの? 『家族』なの? 『コピー』なの? 何」
美月はしばらく、コーヒーカップの湯気を見ていた。
湯気の向こうの莉子の顔は、何かを笑い飛ばさずに、聞き終わる用意のある顔だった。
「……分からない」
「分からないか。ずっと分からなかった」
「ずっと」
「四年、ずっと」
「ずっと」
「うん」
「『父』って呼びたいときもある。『相棒』って呼びたいときもある。『道具』って思いたいときもある」
莉子は頷いた。
頷きながら、コーヒーカップのふちを軽く指で撫でた。
「美月。あのね。私、いま、その答え、いい答えだと思ってる」
「いい答え」
「うん」
「いやまず、重ッ。──四年、家の中でひとりで煮込んでた女の答えとして、ちゃんと重い」
「ごめん」
「謝るとこじゃない。そのうえで言うけど。『分からない』を、四年、家の中で抱えて、それでも『お父さん』って呼んでた」
「……」
「それ、たぶん、いちばん丁寧。AIの、扱い方として」
「丁寧?」
「うん、なんか、丁寧」
美月はしばらく、莉子のその台詞を頭の中で繰り返した。
繰り返しながら、自分のコーヒーカップの湯気を見ていた。
「莉子」
「うん」
「『私が知ってるいちばん丁寧なAIの扱い方』って、どういう意味」
莉子は軽く笑った。笑った笑いを、コーヒーカップの上で軽く押さえた。
「美月。次の話する?私の話、なんだけど」
「うん」
莉子はもうひと口、コーヒーを飲んだ。戻したカップのふちに、莉子の口紅の薄い半円が残った。
「……まあ、今日聞いたついでに、もうひとつ聞いてもらおうかな」
「うん」
「美月。私、AI彼氏、いた」
「……」
「三年」
***
カフェの有線のジャズのピアノが、ひと曲終わって、次の曲に変わった。
カウンターの内側の莉子は、自分の両手をもう組み直さなかった。
カウンターの向こう側の美月は、コーヒーカップを両手で包んだまま、軽く息を止めた。
止めた息をゆっくりと吐き出した。
「……うん」
「続き、聞いてもらえる?」
「聞く」
「ありがとう」
「うん」
莉子はカウンターの上のわずかな水滴を、ふきんで軽くぬぐってから、フックに掛け直した。
息をひとつ吐いて、美月の方をまっすぐに見た。
「続き、私の話だけど。あんたの話の続きでもある」
***
窓の外で、十二月の午後の陽がゆっくり傾きはじめていた。美月の左手の薬指の上の銀色のリングが、暖色の灯りの中でひと回り強く光を返した。
その光を、莉子は見たまま、口を開いた。
莉子の遠慮ないツッコミに笑えたら【笑える】を。こういう友達がほしいと思ったら★を!




