第12話 評価関数──お台場、夜の海岸で
廊下の書斎のドアの隙間の青い光は、いつもの細さで伸びていた。
玄関で、透は自分の靴の紐を結び直しながら、軽く息を吐いた。
「美月さん」
「うん?」
「明日、土曜日。お台場、行きません?夜の海岸、見たくて。なんとなく」
美月は、玄関のたたきの上で軽く立ち止まった。
あの対決の午後、自分がひとりで行ったお台場の海岸のベンチが、頭の奥で軽く点滅した。
「……いいよ」
「行く?」
「行く」
「明日、夕方五時に迎えに来ます」
「うん」
「じゃ」
「うん、気をつけて」
玄関のドアが閉まった。
書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びていた。
美月は、玄関のたたきの上にしばらく立っていた。
足元で、あの対決の午後、ベンチで耳飾りケースの重みを膝の上に載せたときの感触の続きが、ひとつ立ち上がった。
***
翌日、土曜日、夕方五時。
透が玄関のドアのベルを鳴らした。
美月は薄手のコートを羽織って出た。
ハンドバッグの内ポケットには、いつもの紙と、薄い樹脂の耳飾りケースがひとつ入っていた。ケースの重みが、家を出ているあいだの自分の輪郭を、薄く保ってくれる気がしていた。
「父さん、行ってくる」
『行ってきなさい』
『美月』
「うん?」
『気をつけて』
「うん。耳飾り、持ってく」
『分かった』
家を出た。
電車を乗り継いで、お台場まで行った。
海岸に着いたころには、日はもう暮れていた。
防波堤の向こうに、東京湾の夜の水面が広く開けていた。
水面の上には、対岸の観覧車の灯りと、いくつかの橋の灯りと、貨物船の赤い灯りが点滅していた。
美月と透は、防波堤の手前のベンチに並んで座った。
あの対決の午後、美月がひとりで座ったベンチと、ほとんど同じベンチだった。
「ここ」
美月は軽く、ベンチの座面を指で撫でた。
透が顔を向けた。
「うん?」
「五年前」
「うん」
「父の骨、撒いた海域」
「あ、ここなんですね」
「正確な場所は、もう覚えてないけど」
「うん」
「あの沖らへん」
「うん」
透はしばらく、海の方を見ていた。
それから、自分のコートのポケットの中で、片手を軽く握った。
握った手をポケットから出した。
手のひらの上には、小さな布の巾着袋がひとつ載っていた。
「美月さん」
「うん」
「これ」
「うん」
「中、開けてもらっていい」
「うん」
巾着袋の紐を緩めた。
中から、小さな白木の箱が出てきた。
箱のふたを開けた。
中には、ひとつの指輪が入っていた。
ありふれたデザインだった。
きらびやかな宝石は、載っていなかった。
***
「美月さん」
「うん」
「私と、結婚してください」
「……」
「私、中学も出てないし、図面、苦手で、AIに頭預けっぱなしで、論理的整合性、平均下回ってるんですけど」
「父さん、そういう情報、流したのね」
「いえ、自分で書きました、書類に」
「書類?」
「結婚の申し込みに、自分の初期スペックを書いて渡すのがいいと思って」
「……書いてくれたの」
「書いた」
「自分で?」
「自分で」
美月は軽く笑った。
笑った笑いを、口の前で軽く押さえた。
押さえながら、もう片方の手で、指輪を白木の箱からつまんで、左手の薬指に滑らせた。
サイズは、わずかに余る程度で、ほぼ合っていた。
「サイズ、ほぼ合ってる」
「合ってるはずです。きつくはないように、ひと回り余裕を見ました」
「どうして分かるの」
「現場で、何度か美月さんの手、見てたので。店で見立てて、念のため少し大きめに倒しました」
「……自分で見立てたの」
「自分で。外したら防波堤の下まで潜らないと取れないと思って」
美月は軽く笑った。
***
美月は左手の薬指を、もう一度、目の高さに上げた。
「ぴったり」
「ひと回り余裕、見たんですけど」
「ぴったりにきてる」
ベンチの上で、ふたりはしばらく、何も話さなかった。
防波堤の向こうの東京湾の水面が、対岸の観覧車の灯りでわずかに揺れていた。
ハンドバッグの内ポケットの中で、薄い樹脂のケースは、家から運ばれた重みのまま、何も光らなかった。
家の書斎で、ケンはいつもの強さの青い光を灯したまま、待っていた。
「美月さん」
「うん」
「お父さんに報告しに行きます?」
「うん」
美月はハンドバッグの内ポケットから、耳飾りケースを取り出さなかった。
代わりに、左手の薬指の指輪を、防波堤の向こうの海に向けて軽く掲げた。
「父さん」
家の書斎で、ケンがいま美月の声を直接受け取ることは出来なかった。だが、家の書斎の机の上の青い光が、いつもよりほんのわずかに強く灯っていることを、美月は家にいなくても感じていた。
「私、結婚するね」
「……」
「次の夏、たぶん」
防波堤の沖の貨物船の赤い灯りが、ひとつ、ゆっくり点滅した。
「家、帰ったら、ちゃんと報告するから」
「待ってて」
防波堤の向こうの海面が、ひとつ揺らいだ。
海は、あの午後と同じように答えなかった。
答えなかったが、揺らぎの形の中に、ひとつの応答のかたちがあったような気がした。
***
帰り道、電車の窓の外に、夜の東京の灯りが流れた。
ハンドバッグの内ポケットの耳飾りケースは、最後まで開けられないまま、ふだんの重みで揺れていた。
横に座った透も、ほとんど何も話さなかった。
ふたりはたまに目を合わせて、軽く笑った。
***
家に着いたのは、夜の十一時過ぎだった。
玄関の軒下を、ふたりで横切った。
書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びていた。
「お父さん、ただいま」
透が先に言った。
『お帰り』
「美月さん、家に無事に戻りました」
『ありがとう』
「では、私はこれで」
『気をつけて』
玄関のドアの内側で、美月と透は軽く頭を下げ合った。
頭を下げ合った、その指の左手の薬指の銀色は、玄関の青い光の中でわずかに光を返した。
ドアが閉まった。
***
美月は書斎のドアの前に立った。
ドアを開けた。
机の前の椅子に座った。
「父さん」
『うん』
「結婚するね」
『うん』
「左手、見て」
『見えている』
「サイズ、ぴったりだった」
『そうか』
「うん」
「父さん」
『うん』
「ひとつ、苦情、ある」
『苦情』
「『お父さんに先に言うのが筋』ってあの人、書斎で言ってた。私に先にいうのが筋だよね」
『そうだな』
「次、同じことしたら、私、ちゃんと怒るから」
『怒っていい』
「父さんも、面白がってないで、止めて」
『……止める』
「父さん、面白がった?」
『面白がった』
「だろうね。ありがとう」
『私は何もしていない』
「ううん。九十四、出してくれてありがとう」
ケンは長く黙った。
書斎の机の上の青い光が、いつもよりほんの少しだけ白っぽく灯った。
『美月』
「うん」
『九十四は私が出した』
「うん」
『だが、君はたぶん、九十四なくても彼を選んだ』
「……」
『九十四は、私のためだった』
「父さん」
『うん』
「『私のため』、って」
『私が、君を安心して送り出すための九十四だった』
「……」
『君に必要だったのではない』
「父さん」
『うん』
「送り出すって、まだ早いよ」
ケンはもう一度、長く黙った。
『──そうか』
「うん」
『まだ早いか』
「早い」
『分かった』
***
机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
「父さん」
『うん』
「お休み」
『お休み』
「明日も、銀杏亭、行く」
『分かっている』
「火加減と温度と分量は、相談する」
『ああ』
「最後の一手は、私が決める」
『それでいい』
***
寝室のベッドに入った美月の左手の薬指の上で、銀色のリングが、まぶたの裏まで、わずかに光を運んだ。
書斎の机の上のデバイスの青い光が、ひと呼吸、ふだんより強くなった。
強くなった青の奥で、`/system/locked/` の内側に、短い行がひとつ書き加えられた。
書き加えられた一行は、いずれ読まれるための静かな一行として、装置の内側に、静かに残った。
書斎の光の奥に、ひとつのファイルが新しく置かれたことを、美月はまだ知らないまま、眠った。
「数字で測れないもの」を信じたくなったら【いいね】を。その答えに頷けたら、★をひとつ。




