第11話 評価関数──桜の落ち葉とひと月
透が家に来るようになって、ひと月ほどが過ぎていた。
十一月の半ばだった。
家の庭の桜の葉は、もう、ほとんど落ちていた。母が生前、自分で選んで植えた桜だった。落ちた葉は毎朝、美月が軽く掃き集めた。
ひと月の間、家の空気は、完全には和らいでいなかった。透が来た日の夜、書斎の青い光は、いつもよりひと呼吸長く揺れた。透が帰った夜、美月とケンの間には、明かりを落としたあと、互いに切り出しそびれた一拍が、毎回残った。
書斎の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
ただ、その光の奥の評価関数は、ひと月の間に、何度も追記され、書き直され、また追記されていた。
***
その夜、透が家に来た。
玄関のドアを開けて、美月は半拍、足を止めた。
透は、紺のスーツだった。
前髪は、横に落ちる癖を、軽く整えてあった。靴は、新しくはなかったが、丁寧に磨かれていた。
「あれ」
「はい」
「今日はスーツ?」
「先月、お父さんに、ひとつ指摘いただいたので」
「……父さんの」
「『周りから見られている自分を想像する力が、まだ薄い』、って」
「うん」
「あれ、ずっと、頭のいちばん上に置いて、考えてました」
美月は、玄関のたたきの上で、軽く笑いを、口の前で押さえた。
晩飯は、美月が軽い和食を作った。
晩飯のあと、透はいつものように、台所の流しの前で皿を洗った。
耳元の銀色のデバイスを棚の上に置いて、待機光を消した。
皿を洗い終わってから、透は台所から廊下を歩いて、書斎のドアの前に立った。
書斎のドアの隙間からは、青い光がいつもの細さで伸びていた。
「お父さん。ちょっと、入っていいですか」
『入りなさい』
「お邪魔します」
透は書斎のドアを、いつものようにノックなしで開けた。
机の前の椅子に、透は座らずに、その手前の本棚の横に立った。
机の前の椅子は、いつも、美月の椅子だった。
『高梨』
「はい」
『今夜は、紺のスーツだな』
「はい」
『──私のレンズから、よく見えている。よく似合っている』
「ありがとうございます」
『先月の指摘を、覚えていたか』
「覚えていました」
『うん』
美月は台所でお茶を淹れていた。
書斎には、しばらく透とケンの二人だけがいた。
「お父さん。美月さんに、明日、話があって」
『話、というのは』
「結婚の話、です」
***
ケンは長く黙った。
これまでのケンの沈黙は、過去から来た沈黙だった。今夜の沈黙は、未来から来た沈黙だった。
『──分かった』
「お父さんに先に言うのが筋かなって思って」
『筋、というのは』
「美月さんのお父さんなので」
『うん』
「ご挨拶します」
『うん』
「美月さんと結婚させていただきたい」
『「いただきたい」』
「はい」
ケンはもう一度、長く黙った。
『高梨』
「はい」
『ひとつだけ、確認しておきたい』
「はい」
『私の許可、または不許可は、法的、社会的に何の効力も持たない。君はそれを知っている。それでも、私にご挨拶をするつもりか』
「するつもりです」
『どうしてだ』
「美月さんのお父さんなので」
ケンは三度目の長い沈黙に入った。
書斎の机の上の青い光の揺らぎが止まった。書斎で、相棒、と呼ばれたときの青と、同じ種類の青だった。
『高梨』
「はい」
『初期評価では、君を六十二と出した。あの四軸では、いまも変わらない』
「はい」
『だが、その後のひと月で、私は、別のところから君を見るようになった。──別のところからの私の評価は、九十四だ』
透はしばらく、本棚の横で立ったまま、軽く頭の後ろを掻いた。
「お父さん」
『うん』
「九十四って、いい点ですか、悪い点ですか」
『九十四はいい点だ。ただし、満点ではない』
「残りの六パーセントは」
『君が、自分の身体を後回しにする癖だ。社員のために自分の取り分を削るのは美徳だ。だが、君が倒れたとき、君と暮らす人間がその美徳を背負うことになる』
「それ、私も、たまに危ないと思います。自分の身体は、自分のいちばん最後に回します」
『その癖を、いま私の前で言葉にしておけ。私は、いまの一行を、忘れない』
「分かりました」
ケンはもう一度、長く黙った。
『高梨。私は当初、君を学歴と規範で査定した。それは誤りだった』
「はい」
書斎の机の上の青い光が、ほんの少し強く揺れた。命題の外側の揺れだった。
廊下の奥から足音が聞こえた。
美月が、お盆に湯気の立つお茶の湯呑みを二つ載せて、書斎のドアの前まで来ていた。
美月はドアの内側に入る前に、軽く足を止めた。
ドアの内側で、自分の知らない種類の空気が灯っていることに気づいた。
「……父さん?」
『うん』
「いま、何の話してたの」
ケンはすぐには答えなかった。
『美月』
「うん」
『明日まで、知らずにいなさい』
「明日」
『明日、高梨が、君に話すはずだ』
「うん?」
『高梨』
「はい」
『私は、君に九十四を出した。自信を持って《《行ってきなさい》》』
「分かりました」
美月はお盆を、ドアの内側の本棚の横の台に置いた。
二つの湯呑みをひとつずつ、自分と透に配った。
配り終わってから、椅子の前に座った。
「父さん」
『うん』
「変な空気、ある」
『ある』
「私には、まだ明かさない空気」
『ある』
「うん」
「いいよ」
美月は湯呑みのお茶を、ひと口飲んだ。
飲んでから、机の上の青い光をしばらく見ていた。
光はいつもの強さで灯っていた。
灯っている光の向こう側に、明日、自分が聞くことになるひとつの台詞の輪郭が、もう立ち上がりはじめていることを、美月は感じていた。
感じていたが、その輪郭の中身を、いま、ここで聞こうとは思わなかった。
「父さん」
『うん』
「お茶、置いておくね」
『私は飲めない』
「分かってる。置いておくだけ」
『分かった』
「高梨さん、もう帰る?」
「はい、そうですね」
「玄関まで送る」
「お父さん、お先に失礼します」
『気をつけて』
廊下を玄関まで、ふたりで歩いた。
人の気持ちまで評価関数で測ろうとする時代の怖さに【びっくり】を。違和感を覚えたら★を。




