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第10話 はじめまして、お父さん──書斎の机の前で

美月は、台所のコンロの前で、煮込みのふたを開けたまま、廊下の青い光の方を、しばらく()り返っていた。


ケンが透に、自分の評価関数の修正(しゅうせい)を、口頭(こうとう)で説明している声が、書斎のドアの隙間から薄く()れてきていた。


書斎のドアの内側で、透が、机の上の円筒形のデバイスに、もう一度軽く頭を下げた。


「お父さん。私、美月さんの、大事な人なので」


『うん』


「お父さんから見て、私の中に直した方がいい所、気づいたら、言ってください。──減点とか加点(かてん)とかじゃなくて、ただ、言ってください」


『……「減点」、君は自分の口からは言わないか』


「言いません。私が、私を減点される側に置くと、たぶん、美月さんが(いや)がるので」


ケンはしばらく黙った。


『──そうか』


「はい」


『高梨』


「はい」


『君のいまの()り替え、私の評価関数の中で、ひとつ、加点に回す』


「加点、ですか」


『規範からの逸脱の重みが、もうひとつ軽くなった』


「……ありがとうございます」


書斎の机の上の青い光が、もう一度、わずかに揺らいだ。


揺らぎの形は、ひとつの男に小さな矛盾(むじゅん)を見られた、ばつの悪さの揺らぎだった。


『高梨』


「はい」


『減点ではなく、気づいたことを、ひとつ、今夜のうちに渡しておく』


「お願いします」


『君は今夜、作業服で来た。理由を、聞いていいか』


「これが、私にとっては、正装(せいそう)です。スーツでもこれましたがあえて作業服できました。きちんとクリーニングに出してあるものを着てきました」


台所のコンロの前で、美月はふたを少しだけ持ち上げた。蒸気が上がった。


ケンはひとつ黙った。


『高梨。──では、結婚式(けっこんしき)も、作業服で出るのか』


「……あ。考えて、なかったです。結婚式の話、まだ、出てもないので」


『出てから考えるのでは、遅い。一人で結婚式をするなら、作業服で式に出るのは、その個人(こじん)選択(せんたく)だ。だが、君の(となり)に立つのは、美月だ。──美月は、自分の隣に立つ男に、きちっとしたタキシードを着てほしいと思っているはずだ。作業服ではなく。少なくとも私はそう思う』


「……」


『君は今夜、それを、考えなかった』


「……考えてないです」


『周りから見られている自分を想像(そうぞう)する力が、君には、まだ薄い。これが、私の、一点目(いってんめ)指摘(してき)だ』


台所のコンロの前で、美月は、ふたを持ち上げかけた手を、半秒、止めた。


止めた手のまま、廊下の青い光の方に、口の中で、小さくうなずいた。


私も、作業着より、そっちの方がうれしいな、と美月は思った。


思っただけで、声には、出さなかった。


書斎の中で、透は、ドアの内側で、もう一度、深く頭を下げた。


「すみません。考えてませんでした。次は、ちゃんと、考えます」


『……うん』


「私、AIに教わって育ったのもあるのか、言われたことを、自分に入れ直すのは、(きら)いじゃないです」


『……そうか』


「他にもあれば、お願いします」


『今夜は、一点でいい』


「分かりました」


***


「高梨さん」


廊下の方から、美月の声が聞こえた。


「はい」


「ご飯、来て」


「わかりました」


透が、ドアノブに手を伸ばしかけた。


『高梨』


「はい」


『話の続きは、夜、食事のあとだ』


「分かりました」


透は書斎のドアの内側で、もう一度軽く頭を下げた。


頭を下げる、その姿勢に(うそ)はなかった。


***


夕食(ゆうしょく)のテーブルに、煮込みと、()け合わせの野菜(やさい)と、お米と、薄手の漬物(つけもの)が並んだ。


オムレツではなかった。


オムレツは銀杏亭(いちょうてい)で焼くものになっていた。家の台所では、しばらく焼いていなかった。


透は、両手を(ひざ)の上で軽く(そろ)えてから、ゆっくり「いただきます」と言った。


「いただきます」が、ちゃんと、首の角度(かくど)のついた「いただきます」だった。


***


夕食のあと、透は(なが)しの前に立った。


「美月さん、皿、洗わせてください」


「あ、いいよ、座ってて」


「お父さんに一点指摘された日くらい、洗わせてください」


「……じゃあ、お願い」


透は、袖をひとつ()り返して、皿を洗いはじめた。


耳元(みみもと)の銀色のデバイスを、台所の(たな)の上に、丁寧(ていねい)に置いた。


棚の上で、銀色のデバイスは待機光(たいきこう)を灯さなかった。


「切ったの?」


「切りました」


「切ってて、不便(ふべん)じゃない?」


「『AI、切ってるときの自分』を、忘れないように、たまにこうやって切ってます」


「……」


「忘れると、AIの出力が、自分の判断みたいに見えてくるので」


「分かる」


透は皿を洗う手を止めずに、台所の棚の上の銀色のデバイスに、ふっと半秒、視線(しせん)を投げた。


その視線の半秒に、AIなしでは間がもちきれない種類の薄い(かげ)があった。美月はその半秒を、頭の(すみ)に置いておいた。


「料理の人にも、それある?」


「ある」


「……ですよね」


***


書斎のケンは、漏れてくる空気の感じだけを、書斎のドアの隙間から、自分の青い光の揺らぎの形で推定(すいてい)していた。その推定を、推定のまま置いておくことを、今夜のケンは(えら)んでいた。


***


その夜、透が帰ったあと、美月は書斎に入った。


机の前の椅子に、ゆっくりと座った。


「父さん。さっきの食事と、皿洗いのときの話、する」


『うん』


「聞いて」


『……聞かせてくれ。ありがとう』


「父さん、ありがとう、って言うの、二回目」


『……二回目か』


「うん」


「一回目は、高梨さんに」


「二回目は、私に」


「父さん。ペース、上がってる」


『上がっているか』


「上がってる」


『分かった。注釈を、もう一行、加える』


「加えて」


『「ありがとう」を、口にする頻度(ひんど)を、自分の手で書き()える権利(けんり)を、私は持つ』


「うん、持って」


美月は、その夜の透のことを、ひとつずつ、頭から話した。


ケンは、ほとんど口を(はさ)まずに聞いた。


聞き終わってから、机の上の青い光が、ひとつ、長く息を吐くように、わずかに低く揺らいだ。


『美月』


「うん」


『初期評価、六十二、をいったん保留(ほりゅう)する』


「保留」


『「社会的、経済的、論理的整合性ろんりてきせいごうせい」の軸だけでは、彼を(はか)れない』


「うん」


ケンはしばらく黙った。自分の重み付けを自分の手で書き換えはじめている沈黙(ちんもく)だった。


『今夜、彼の作業服に、指摘を一点入れた。彼は、「次は、ちゃんと考えます」と言った』


「……うん」


『──私は、その一行のほうを、書き留めておく』


「父さん」


『……結衣(ゆい)の声を、結衣が生きているうちに、私は、こうして書き留めなかった』


母の名前だった。


ケンの口から、母の名前が出るのを、美月は久しぶりに聞いた。


美月は椅子の背に頭を、軽く預けた。


天井の木目を見た。


蒸留の夜の翌朝にも見た木目だった。


「父さん」


『うん』


「父さん、いま、ちょっとだけ、生きてる人の語り方してる」


『……』


「気のせい?」


『気のせい、と言ってもらえれば気のせいだ』


「うん」


「気のせい、にしておくね」


『分かった』


***


机の上の青い光の奥で、ひとつの(じく)が、新しく立てられはじめていた。その軸の名前を、ケンはまだ言葉にしていなかった。


廊下に出た。寝室のベッドの枕元(まくらもと)には、現場の新聞紙(しんぶんし)の小さな(たば)と、バーのコースターと、透の名刺(めいし)が、順に重なって置かれていた。


書斎の光の奥で、ケンが、新しい軸の重み付けの最初の一行を、自分の手で書きはじめていることを、美月はまだ半分しか知らずに目を閉じた。


不器用な初対面の先にじんわり来たら【にこにこ】か【泣ける】を。見守る気持ちで★をひとつ。

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