第9話 はじめまして、お父さん──玄関のベル
花婿スコア62%が出た、その日から、家の空気は半拍ぶん硬いままだった。
書斎の机の上の青い光は、ふだんの細さで灯っていた。寝室の湿度も、台所の温度も、書斎の机の縁の耳飾りケースも、ぜんぶ、いつも通りに動いていた。動いていたまま、誰も、その数字の話を口に出さなかった。
土曜日の夕方が、ゆっくり、家の上に降りてきた。
***
夕方の五時を回った頃、玄関のドアのベルが鳴った。
美月はエプロンを外しながら、廊下を歩いた。
廊下の奥の書斎のドアの隙間からは、青い光がいつもの細さで伸びていた。
ドアを開けた。
透は、作業服姿だった。
紺のニッカポッカ。シャツは糊が利いていて、襟元まできっちりと折り目が立っていた。クリーニングから出したばかりの、まだ袖の畳み筋が薄く残る、まっさらな一着だった。
両手で、白い箱をひとつ、抱えていた。
「お邪魔します。すみません、急に。これ、お父さんに」
箱の中身は、薄い和菓子の詰め合わせだった。
「父さん、食べられないよ」
「あ、それは聞きました。うちの社員に聞きました。『AIには、お供えでいい』って。お供えは、AIにも受け取れるって」
廊下を歩きながら、透は書斎のドアの隙間の青い光に目を留めた。
「あれ、書斎のお父さんのAI、なんか、立派ですね」
「立派?」
「光が、太い。よくみるスマートスピーカーのと、違う」
「違う?」
「よくみるやつは、もっと小さい。卓上の、缶みたいなやつ。お父さんのは、大きくてしっかりしていますね」
「……」
美月は廊下の途中で足を止めた。
書斎のドアの隙間の青い光の向こう側で、ケンは、机の上のマイクが拾う足音と衣擦れを、ひとつの来訪者として束ねて聴いていた。
「高梨さん。父さんに、先に挨拶、いいかな」
「行きます、行きます」
「料理、まだなの」
「分かりました」
***
書斎のドアを開けた。
青い光が、廊下にひと回り太く伸びた。
透は半歩後ろに立ったまま、ドアの内側を覗き込んだ。
机の上の円筒形のデバイス。
その上端の青いリングが、いつもの強さで灯っていた。
透はドアの内側で、しばらく立ったままでいた。
それから、現場でヘルメットを脱いだときに見せた、あの姿勢で軽く頭を傾けた。
そして、机の上の円筒形のデバイスに向かって、まっすぐに頭を下げた。
「お父さん、はじめまして。高梨 透です。美月さんとお付き合いをさせていただいてる者です。現場の改修、職人を……」
透は、言いかけて、頭を下げたまま、軽く言い直した。
「すみません、最近、職人と経営者と、自分でもどっち名乗っていいか迷ってて。え、いまは、経営者の方を名乗ります。高梨工務店の三代目で、社員、二十二人います。これからも、よろしくお願いします。お供えに和菓子をもってきました」
ケンの応答は少し遅れた。
これまでのどの遅れとも違う種類の遅れだった。
『──こちらこそ、はじめまして。お供えの和菓子、ありがとう』
「あ、いえ、こちらこそ。お父さん」
『うん』
「すみません、ちょっと緊張してます」
『……うん』
「現場の見積もり出すときより、緊張してます」
『そうか』
美月は廊下に立ったまま、ドアの外側で軽く笑った。
笑った笑いを、口の前で軽く押さえた。
***
「お父さん」
透はまだ書斎のドアの内側で立ったまま、続けた。
『うん』
「ひとつだけ、お話してもいいですか」
『話していい』
「私、中学を二年で辞めて」
『聞いている』
「あ、聞いてます?」
『美月から聞いた』
「あ、そっか」
『うん』
「で、その後、AIに教わって育ったんですけど」
『うん』
「先生は、AI でした」
『……AIが、先生だったか』
「人間の先生は、中学校二年で終わり」
『……』
「だから、お父さんが、私、怖くないです」
『怖くない、というのは』
「うちの先生だった人と、お父さん、たぶん、種類は近い」
ケンはしばらく黙った。
書斎の机の上の青い光が、いつもよりほんのわずかに強く灯った。
『──そうか』
「失礼な言い方だったら、すみません」
『失礼ではない』
「ほんとですか」
『私はAIだ』
「はい」
『AIに「先生」と言ってくれた人間は、これまで君が二人目だ』
「二人目?」
『一人目は、私を書いた人間だった』
「あ、お父さん」
『そうだ』
「先生。……いや。お父さん」
『うん』
「あ、すみません、自分のと混ざってしまいました」
『混ざっていい』
美月は廊下のドアの外で、もう一度、口の前で軽く笑った。
「父さん。ご飯、出来てる」
『うん』
「先に台所、行く」
『行ってきなさい』
「高梨さん、書斎、もう少し」
「あ、もうちょっといていいですか」
「いて」
「お父さん。美月さんのこと、ちょっとだけ、話させてください」
『話しなさい。──ただし、「すみません」、君は今夜、もう五回口にしている。そんなに謝らなくていい』
「あ、すみません」
『六回目だ』
***
美月は廊下を、台所に戻った。
煮込みのふたを開けた。
蒸気が上がった。
蒸気の向こうに、廊下の青い光と、その光に向かって軽く頭を下げたばかりの男の作業服の背中が、薄く見えていた。
書斎の中では、透が、机の前の椅子の手前の本棚の横に立ったまま、ケンの方を向いていた。
「お父さん。ひとつ、聞いていいですか」
『聞きなさい』
「私は、美月さんのこと、すごく好きで」
『うん』
「で、お父さんは、たぶん、私のこと、ちょっとどうかと思ってる」
『うん』
「『ちょっとどうかと思ってる』、合ってます?」
『合っていない。だいぶどうかと思っている』
「まいったなぁ」
『未来の話は、当面の話と区別する』
「分かりました」
ケンは長く黙った。
『高梨』
「はい」
『君の最終学歴は、中学二年中退、最終学歴・小学校卒、と認識している』
「合ってます」
『同年齢ではめずらしい方だ』
「私、めずらしい方ですか」
『私の評価関数の当初の重み付けでは、めずらしい方だ。世間一般から見ても明らかに異常だ。この点は私の評価関数において減点となる』
ケンはしばらく黙った。
『ただし、減点の重み付けには、注釈を一行、入れてある』
「注釈」
『私の妻は、娘がまだ幼いころに死んだ。私は娘を、ひとりで育てなかった。AIにも、半分育てさせた』
「……」
『その私が、義務教育を放棄しAIに自身の教育をゆだねた男に、規範からの逸脱という減点を一律に下ろすのは、整合性を欠く』
「お父さんは、自分の評価関数を、自分で書き直してるんですね」
『……書き直している』
「すごいですね」
『……』
透が父AIに「はじめまして」と挨拶する場面の、ぎこちない温かさに【にこにこ】を。




