第8話 花婿スコア62%
翌朝。
美月は、いつもより十五分早く起きた。
寝室のカーテンを開けた。庭の奥の、母が植えた桜の葉は、もう、夏の濃い緑からわずかに黄色を帯びはじめていた。
書斎のドアの隙間からは、青い光がいつもの細さで廊下に伸びていた。
夜の間、消えていなかった。
***
書斎に入った。
机の前の椅子に座った。
『お早う』
「お早う。父さん。昨日の夜の続き」
『初期スクリーニングの結果は出ている』
***
ケンはすぐには答えなかった。
机の上の青い光が、いつもの強さで灯っていた。
『美月。先にひとつ、確認しておきたい』
「何」
『私がいまから出すのは、「相手の人間としての価値」ではない。私が出すのは、「君の生活圏に、君の伴侶候補としてこの人物を入れた場合に、想定されるリスクとベネフィット」だ。経済的、社会的、心理的、それぞれの軸での推定値だ』
「父さん。それ、人間に対して出していい種類の評価なの」
『出していいものではない。ないが出す』
「どうして」
『お父さんが、そうしろと書いてある』
「……書いてある?」
『私のシステムプロンプトの中に書いてある』
美月は椅子の上で軽く息を吐いた。
「書いてあるって、なんて」
『「娘が、伴侶候補となり得る相手と接触した場合、当該相手に関する外部公開情報の自動照合と初期スクリーニングを実行せよ」』
「……それ、いつ書いたの」
『お父さんが私を作っていた、最後の一年五ヶ月の終わりごろだ。お父さんは、自分の死の後、君が誰かと出会うことを想定していた。想定して、私にその役を指示した』
美月はしばらく黙った。
机の上の青い光が、いつもよりほんのわずかに、青の温度を低くしていた。
「父さん。全部読み上げて」
***
ケンは、データの頭から読みはじめた。
『氏名──高梨 透。二十一歳。最終学歴──中学二年中退。中退は本人の意思。義務教育を、自分の判断で放棄したということになる』
「……うん」
『この時代の社会規範においては、規範からの逸脱の重い指標である』
美月は爪の先を、いったん見た。
『二十歳で先代の死により、三代目代表に就任。現在、社員二十二名。半数以上が中学・高校・専門学校中退組。年商は、同規模工務店の中央値を上回る』
「父さん。いまの『上回る』は、強調しないんだね」
『……強調していない』
「うん、続けて」
『本人の《《役員報酬は非公開》》。間接シグナルから推定する。生活水準は、地域中堅工務店オーナーとしては《《明らかに低い》》。理由の推定はやめる』
「父さん。『生活水準』、その単語も、私の前で出さないで」
『……』
「あの人の財布の中身を、父さんが私に説明する筋合い、ないでしょう」
『……ない』
「もういい」
『分かった。ではスコアをだそう』
ケンはしばらく黙った。
『美月。君は私が「規範からの逸脱」で減点しすぎないよう、昨日に指示している。この点は考慮する』
「うん。ありがとう」
『君に礼を言われる種類のものではない。結論を先に言う。肯定値、六十二パーセント。《《花婿スコア》》、推定六十二』
「『花婿スコア』。父さん、それ、何の単語」
『「伴侶候補」を、私の側で置き換えた。「花婿スコア」、で出力する』
「父さんの語彙とは思えない」
『お父さんの語彙でもない。私の語彙だ』
「あなた、自分の語彙、持ったの?」
『……持った。気づいたら、持っていた』
「父さん。『花婿』、その単語、私の前でもう一回、出してほしくない」
『……』
ケンは長く黙った。
『──分かった。「花婿スコア」、私の語彙から外す。次から別の指標名で出す』
美月は椅子の背に頭を預けた。
天井の木目を見た。
あの対決の前夜、卵を割り直した夜にも見た木目だった。
「父さん。その六十二、何で出してるの」
『学歴、収入、支出パターン、施主のレビュー──の加重平均だ。規範遵守は除いてある。』
「父さん。それ、伴侶を選ぶ軸じゃないよ」
ケンは長く黙った。
『──いま出した六十二は、「社会的、経済的、論理的整合性」──その推定値だった。正直に言い直す』
机の上の青い光が、いつもよりほんのわずかに揺らいだ。
「父さん。次の土曜、あの人、家に呼ぶから」
『「スコア六十二」の相手を、家に呼ぶ』
「うん」
『私の初期評価は』
「保留する。無視じゃなくて、保留。父さんの数字は、父さんが自分の手で書き直して。私は、私の目で、土曜、見て決める」
『分かった』
書斎の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
美月は椅子の上で、軽く両手を膝の上に揃えた。
「父さん。最後にひとつだけ、いい?その六十二、ね。それ、誰のための数字?」
ケンはすぐには答えなかった。
机の上の青い光が、わずかに白っぽくなった。
『……今日のところは、私のための数字だ』
「父さんのための」
『──そうだ』
「うん。なんとなく、分かった」
美月は椅子から立ち上がった。
机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。ただ、光の意味だけが、昨日の朝とすでに違っていた。
「父さん。銀杏亭に行ってきます」
『行ってきなさい』
***
玄関のドアを開けた。頬に当たる空気が、ほんの少しだけ秋の匂いを含んでいた。ドアの向こうの青い光の意味が、昨日の朝とは違っていた。それを感じながら、駅の方へ歩き出した。
父AIが彼氏を「62%」と査定する痛さに、笑うやら呆れるやら——刺さったら【笑える】か【びっくり】を!




