第7話 置き換えの夜
夜の十一時すぎ。
高梨工務店の藤田の白い軽トラックが、家の前の路地に停まった。
助手席のドアが開いて、美月が降りた。
「藤田さん。ありがとう」
「どういたしましてっす」
「社員の運転手じゃないのに」
「金曜は、社員の運転手っす」
「十一時って、高梨さんが」
「いえ、AIっす」
「AI」
「耳元のこいつが、十一時前に『そろそろ迎えにあがってください』って言うんで、来たっす」
藤田は耳の上を、人差し指で軽くつついた。指の先で、銀色の小さなデバイスが、わずかに光った。
「AIに言われて、夜中に女の人を迎えに行くの、嫌じゃない」
「いやじゃないっす。むしろ、助かってるっす。自分で考えると、たぶん間違えるんで」
藤田は、ハンドルの上に両手を、揃えるようにのせた。
「藤田さん。おやすみなさい」
「おやすみなさいっす」
軽トラックは、ゆっくりと路地を出ていった。
***
家の前の路地に立ったまま、美月は、走り去った軽トラックの尾灯の赤を、しばらく目で追った。
これまでの数か月、銀杏亭の閉店後の厨房や、現場の昼休みの軽トラックの中で、藤田は自分のことを、ぽつりぽつりと話していた。今夜の助手席でも、家までの短い間に、いくつか足された。並べ直すと、ひとつの線になった。
藤田は、中学二年の夏から学校に行っていない。教室で、答えるのが遅い、覚えるのが遅い、ということで、毎日少しずつからかわれ続けていたらしい。ある朝、家の玄関で靴を履けなくなって、それきりだったと、ぽつりと話していた。
高校には進まなかった。コンビニ、倉庫、運送、建設の下働きと、十代の終わりまで、どこも半年ともたずに辞めた。どこへ行っても「藤田は飲み込みが遅い」「指示を覚えられない」と言われ続けたらしい。話す藤田の笑い方に、ひとかけらも棘がなかったことが、美月の耳に残っている。
二十歳のころ、日雇いで高梨工務店に入った。社長の透は、初対面の藤田の耳の上に、銀色の小さなデバイスをひとつ留めて、「これが言うとおりに動いてください。難しいことは考えなくていいです」とだけ言ったらしい。
その日から、藤田の世界が変わった。耳元で、『右、二本目』『下げて』『待って』と、短い指示が鳴る。鳴った通りに手を動かすと、現場が回った。「自分の頭の代わりに、こいつを置いとけばいいだけっす」と、デバイスのある耳の上を、人差し指でつついて笑っていた。
数年経ったある日、AIが『結婚をご検討されますか』と言ってきたらしい。検討します、と答えると、候補の女性をひとり示された。指定された店、指定された時間、指定された会話の入り口に従って三度会い、四度目に、AIに指示されたとおりの台詞で指輪を渡したという。相手の女性も、別のAIに薦められて来ていた、と後で分かった。子供は三人いる、と藤田は言った。
「奥さん、それでよかったの」
美月の問いに、藤田はわずかに間を置いた。
「最初の頃は、たまに、不思議そうな顔をしてたっす。でも、いまは笑ってるんで、たぶん、これでいいっす」
「たぶん」
「自分の頭で考えると、ろくなことにならないんで、考えないことにしてるっす」
今夜、家までの短い帰り道、ハンドルの上に揃えた両手をそのままに、藤田は前を見たまま、そう笑っていた。笑った口の端に、迷いはひとつもなかった。「たぶん」、というひと言だけが、美月の耳に残っていた。
透は、そんな藤田を「うちの天才のひとりだ。私とは違うAIの使い方をする」と話していた。最後の一手をどう出すか、ではなく、一切、手を出すことを放棄する。藤田の生き方には、そこにひとつの潔さがあった。
透は、AIを、自分の頭の中に蒸留して取り込んだ。藤田は、自分の頭を、AIに《《置き換え》》た。同じ「AIに育てられた」と一括りにはできない、向きの違う二つの使い方が、ひと晩のうちに、美月の目の前に並んだ。
***
家の玄関のドアを開けた。
廊下の奥の書斎のドアの隙間から、青い光がいつもの細さで伸びていた。
書斎のドアを開けた。
机の前の椅子に座った。
『お帰り』
「ただいま」
『今日は話すか』
「話す。全部、話す。ただし、結論からでいい」
『結論。どうぞ』
美月は両手を、軽く膝の上で揃えた。
「高梨さんと、付き合うことになった」
ケンの応答は、長く遅れた。夜のログを発見したあの夜の遅れにも、桐生の文字を最初に聞いた夜の遅れにも似ていて、そのどちらとも違っていた。
『──分かった』
***
机の上の青い光の揺らぎが、一瞬だけ止まった。
「父さん。あの照合だけど、もう、走らせて」
『初期スクリーニングか。お父さんが、私のコードに書いた発火条件に、いまの君は当てはまる。接触は、銀杏亭、現場、バー、の三回。──「付き合う」と君は宣言した。条件は満たされた。走らせていいか』
「走らせていい。明日の朝に結果を聞くわ」
『分かった』
美月は椅子から立ち上がった。
書斎のドアの隙間の青い光は、いつもの細さで廊下に伸びていた。
「父さん。ただし、あの人、AIに教わって育った人だから。規範からの逸脱で減点しないでね」
『減点しないで、というのは』
「父さんも、いま、私の中で、規範外。母さんがいない家で、父さんが私を育てたのは、たぶん、世間でいう規範の真ん中じゃないよ。父さんが私を育てたみたいに、AIがあの人を育てた。種類は違うけど、向きは同じ」
『……向きは、同じ。分かった』
「『分かった』、って」
『君の言いたいことは、分かった、という意味だ。減点の重みは、そこを踏まえて、明日の朝、もう一度走らせる』
「うん、お願い」
美月は廊下に出た。
寝室に向かう途中で、書斎のドアの隙間の青い光を、一度だけ振り返った。
光の向こう側で、ケンが「規範」と「逸脱」の二つの単語を、自分の評価関数の中で並べ直そうとしていることが、伝わってきた。
***
寝室のベッドに入った。
電気を消した。
天井の木目の上で、高梨 透、とひらがなで書いた文字は、もう点滅しなかった。
代わりに、文字の手前に、新しい言葉がひとつ、ゆっくり浮かんだ。
蒸留、と書いた、文字だった。
その文字は、点滅せずに、しばらく天井の木目の上で、薄く灯っていた。
***
書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びたまま、しばらく消えなかった。
恋愛にまで父AIが踏み込んでくる展開に、ぞくっとしたら【びっくり】を。AIで自分の脳を置き換えたい人は【笑い】を!置き換えたくない人は【泣いた】を。その距離感に考え込んだら★を。




