第6話 蒸留の夜──中二の冬のAI
美月は、自分のグラスの中の淡い黄色を、しばらく見ていた。
それから、グラスを置き直した。
「そういえば、中学2年生から登校しなくなった話を聞いていい?」
「はい」
透は、グラスの中の琥珀色を、もう一度ひと口含んだ。
「中二の冬、AIに、毎日、朝から晩まで話しかけてました。ちょうどその頃、AIサービスが世の中で盛り上がりはじめた頃で。精度はまだ低かった。でも、私には、衝撃的でした」
「衝撃的」
「何度同じことを聞いても、文句のひとつも言わずに、こちらのレベルにあわせて教えてくれる。学校の先生、悪い人じゃなかった。良い先生でした、たぶん。でも、先生の頭ひとつ分しか、こっちには移らない」
透は、カウンターの内側の棚のボトルの列を、軽く目で撫でた。
「AIは、世界中の先生の頭をぜんぶ食べた後の頭だから、毎日話してると、いろんな先生の頭が、ちょっとずつこっちに集まってくる。──それをAIの専門用語で《《蒸留》》と呼ぶ。その単語もAIから教わりました」
「ある朝、気づきました。学校の先生から教わってる量より、AIから教わってる量の方が、明らかに多く頭に入る、と」
透は軽く笑った。グラスの中の琥珀色を、舌の上で短く転がしてから、続けた。
「で、その日の夜、家に帰って、親に頭を下げて、辞めさせてもらいました。普段はAIも含め人の言うことを聞くんですが、これではないと確信した際は、自分を信じる性分なもので。おかげで最終学歴は、小学校卒ですが」
「小学校卒」
「小卒です」
「中学辞めるとき、父、三日口をきいてくれませんでした。四日目に『お前が決めたなら』って折れた。──私が二十のときに亡くなって、工務店を継いで。社員、みんな、学校に行かなかった子、行けなかった子、続かなかった子で。自分が中学を辞めたときに欲しかった働き方を、いまの社員に回してます」
カウンターの上で、美月のグラスの淡い黄色が、半分くらいに減っていた。
その分だけ、カウンターのランプの色が、グラスの底の方に低く沈んで見えた。
「佐倉さんは、何で料理人?」
透が、グラスを置きながら、こちらに視線を戻した。
美月は、淡い黄色の残り少ないグラスを、しばらく見ていた。
「うちのお父さん、AIの研究者で。五年前に、亡くなって」
「あ、そうなんですね」
「うん。死んだ後も、書斎にAIが残ってて」
「……えっ」
「父のAI、なんですけど」
***
透は、軽く首を傾けた。
桐生の傾けるような、評価のための首の傾けではなかった。
落ちてきた話を、いったん耳の奥まで通すための、聞く側の首の傾けだった。
「あ、すごい。いいですね、それ」
「え?すごい?」
「佐倉さんも、お父さんから《《蒸留されて育った》》んですね」
***
美月のグラスの底に、淡い黄色の最後の一口が残っていた。
その一口を、しばらく見ていた。
カウンターの間接照明が、グラスの底の黄色を、薄く拾っていた。
頭の中で、家の書斎のドアの隙間の青い光が、ひとつ、その黄色の上に重なった。
〔琥珀色も、青い光も、同じ蒸留の続きだった。〕
***
「……うん、そうかもしれない」
「いいですね。一度会ってみたいです」
カウンターの上のグラスは、両方とも、底の方に少しだけ残っていた。
透は自分のグラスを、軽くカウンターの上で回してから、置き直した。
「佐倉さん。私、佐倉さんの料理、好きで。人としても、好きで」
「うん」
「私とお付き合いしてもらえないですか」
「……」
「急ですみません。返答に困りますよね。断っても、気にしなくてもいいです」
美月は淡い黄色のグラスの底を、もう一度見た。
四年分の沈黙のいちばん下の方が、ひとつ、ゆっくり持ち上がってきた感じがあった。
「断らない」
「あ」
「断らないです」
「いいんですか」
「うん、いい」
「ありがとうございます。今ものすごく幸せです」
透は、頭を軽くカウンターの方へ下げた。
下げた頭は、しばらく、上がらなかった。
カウンターの内側のバーテンダーが、別の棚から音を立てずに、もう一本ボトルを出してきた。
「お祝い、いたしましょう」
「あ、すみません、お願いします」
「お連れさんは、お酒、お強くないと伺いましたが」
「強くないです」
「では、薄めにお作りします」
「お願いします」
新しいグラスに、淡いオレンジ色の液体が、二人ぶん、注がれた。
「シャンパンのカクテル、ぐらいの強さです」
「ありがとうございます」
「中の蒸留酒は、隣の島の十二年もの。高梨さまのお父様から、お預かりしてあった一本です」
透は、カウンターの内側のバーテンダーの方を、しばらく黙って見ていた。
バーテンダーは、軽く頭を下げて、奥の棚の方に下がった。
透は、自分の前のグラスを、両手で軽く包んだ。
「父は、用意周到だ。中学を退学するといった際は、めちゃくちゃ怒っていた癖に。『お前が決めたなら』って折れた癖に。結局、いつかこういう夜が来るって、分かってたみたい」
「分かってたんだね」
「そうみたい」
ふたりは、もう一度、グラスを軽く合わせた。
ガラスのぶつかる音は、低く、短く、薄暗い空気の中に、また溶けた。
「佐倉さん。お父さんに、報告しないと。私、お父さんに、まだ会っていません。いつ、ご挨拶できますか」
「次の土曜の夕方、家、来る?」
「行きます」
「うちの父さん、説教長いよ。最後まで聞ける」
「最後まで」
カウンターの上の二つのグラスの中で、淡いオレンジ色が、二口、ゆっくり減っていった。
レコードの低い音は、まだカウンターの薄暗い空気の中を、ゆっくり流れていた。
ふたりの夜の距離感にどきっとしたら【にこにこ】を。蒸留したい人は【泣いた】を。小卒になりたい人は【笑い】を!あと一歩、と思ったら★を。




