第5話 蒸留の夜──軽トラックの裏通り
来週の金曜の夜、八時。
家の前の路地に、藤田の白い軽トラックが停まった。
「お疲れさまっす」
「お疲れさま」
「社員、運転手モードっす」
軽トラックは住宅街から、少し外れた商店街の裏通りに入っていった。
路地の奥に、古い木造二階建ての建物があった。
一階の入口の頭の上に、小さく、黒い金属の看板が一枚だけ吊るしてあった。
> Bar Reposé
「うちが改修した、知り合いのバーっす」
藤田が運転席から、首を伸ばして看板の方を見た。
「亡くなった先代の最後の現場、これだったらしいんで。守れって社長から言われてるっす」
「……」
軽トラックを降りた。
入口の引き戸の向こうから、レコードの音が低く漏れていた。
引き戸を開けると、薄暗いカウンターが奥に向かって伸びていた。
カウンターの内側の棚には、ずらりと、形も色もばらばらの蒸留酒のボトルが並んでいた。
カウンターの中ほどの席に、紺の作業服ではないシャツの透が、ひとりで座っていた。
ベージュの丈の長めのシャツ。袖は肘の上まで雑にまくられていた。腕の内側に、現場でついたと思しき薄い傷が、二、三本走っていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様っす」
「藤田、ありがとう」
「いえ、では失礼するっす」
藤田は引き戸の外で、軽く頭を下げてから、軽トラックに戻っていった。
「では美月さん。いきましょう」
***
カウンターの内側に、五十がらみのバーテンダーが立っていた。
黒い蝶ネクタイ。白いシャツ。前髪を後ろにきっちり撫でつけていた。
「いらっしゃいませ。高梨くんのお連れさんですね」
「はい」
「先代からこの建物を任されている、三代目の高梨くんのお連れさん。──歓迎いたします。お飲み物は」
透は、奥の棚のいちばん高いところを軽く指さした。
「シングルモルト、いつものを」
「畏まりました」
「佐倉さんは、確かお酒は弱かったよね」
「はい。弱いのありますか」
バーテンダーが、棚の左寄りからボトルをひとつ降ろした。
「軽めのジンと、グレープフルーツのジュースを混ぜましょう」
「お願いします」
透の目の前に、琥珀色の液体が、丸い大ぶりのグラスに、ひとさじだけ注がれた。
美月の目の前には、淡い黄色の、軽くハイボールよりは細い背の、小さなグラス。
ふたりで、軽くグラスを合わせた。
ガラスのぶつかる音は、低く、短く、すぐに薄暗いカウンターの空気に溶けていった。
「乾杯!」
しばらく、ふたりは何も話さなかった。
カウンターの内側のバーテンダーは、もう一人の客のグラスを磨いていた。
レコードの低い音が、薄暗い空気の中で、ゆっくり流れていた。
「銀杏亭、最近、どうですか」
「忙しい。対決の記事の効きが、まだ続いてて」
「うちの社員、また食いに行きたいって言ってます」
「来てくれていい」
「行かせます」
「うん」
透は琥珀色の液体を、軽く口に含んだ。
含んだ液体を、しばらく舌の上で転がしてから、ゆっくり喉の奥に落とした。
カウンターの内側のバーテンダーは、磨いていたグラスをそっと棚に戻してから、こちらに向き直った。
「シングルモルト、今夜のは、北の島の、潮の効いた一本ですね」
「はい」
「ピートが効きすぎる前の、樽のいいところを引いた一本です」
「いい一本ですね」
「ありがとうございます」
バーテンダーは美月の方にも、軽く目を合わせた。
「お連れさんに、面倒な話をしていいですか」
「面倒な話?」
「ウイスキーの作り方の話です」
「お願いします」
「ウイスキーは、麦のお粥を温めて、立ち上った湯気の方だけを集めて、また冷やして、液にします」
「湯気の方だけ」
「お粥そのものを飲むと、麦の濁りも、雑味も、全部入っています。湯気には、そのうちのいいところだけが、軽くなって立ち上る。それを樽の中で、十年、二十年、寝かせて、初めて飲めるものになります」
「……二十年」
「私たちは、それを《《蒸留》》と呼んでいます」
バーテンダーは、もう一度、棚のグラスを軽く撫でてから、カウンターの奥に下がった。
カウンターの上には、琥珀色のグラスと、淡い黄色のグラスと、ふたつだけが残った。
***
透は、自分のグラスをカウンターの上で軽く回した。
回したグラスの中の琥珀色が、カウンターの間接照明をひとつ、ゆっくり拾った。
「『蒸留』、その単語、私、好きなんです」
「お酒の?」
「お酒のも、人のも」
「人のも?」
「人のもです」
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