第3話 現場見学──うちの現場を見ますか
二週間ほど経った頃、銀杏亭のホールに、また紺の作業服の透が一人で来た。
夕方の客がまだ入る前の、半端な時間だった。
レジの前で、伝票を切る前に、透は西村に頭を下げた。
「すみません、佐倉さん、お時間少し。お忙しい時間に、すみません」
西村は美月を呼びに行き、美月はエプロンを軽く拭きながら、ホールに出た。
二人席に、向かい合って座った。
「もしよろしければ、うちの現場を見ますか?」
透は、座るなりそう切り出した。
「うちの現場、見たら、佐倉さんに何か残るかもしれないって思って。『最後の一手』の話、続きが、現場にあるかもしれないので。銀杏亭で、佐倉さんが書いてた、雑誌の。あれが好きで」
「読んだの?」
「読みました。対決の記事の方を、雑誌で。そのあと、もう一回、銀杏亭で食べたあとに、また読みました」
「都内の住宅街の奥。築八十年、木造二階建て、改修中の現場です。来週、火曜の朝、九時、最寄り駅まで車で迎えに行きます。うちの社員のひとりが、運転します」
「いまどき自動運転の車じゃないの」
「うちの社員に運転、好きな人がいるので。道案内は、その彼の耳元のAIが、彼に直接喋ります。『会社の運転手じゃないっす』って彼はよく文句を言ってますけど、その彼にお願いしてあります」
透は両手でテーブルの端を軽く押さえてから、立ち上がった。
「火曜、九時に、最寄り駅で」
「分かりました」
「ヘルメット、こちらで用意します。現場、入るので」
「入っていいの」
「私の現場なので入って大丈夫です」
***
火曜日の朝、九時。
最寄り駅の北口の出口に、白い軽トラックが停まっていた。
運転席から、紺の作業服の若い男が降りてきた。
昼間の銀杏亭で見た、三人のうちのいちばん年若そうな男だった。
「佐倉さん。高梨工務店の藤田っす」
「ああ、藤田さん。会社の運転手の」
「会社の運転手じゃないっす」
「あ、社長から聞いてます」
「光栄っす」
藤田は、かるく頭を下げた。
頭を下げる姿勢に、隙のない素直さがあった。
軽トラックは住宅街の奥に入っていった。
途中、藤田は耳元の銀色のデバイスに小声で何かを喋り続けていた。
「右折二本目で、いいっすか」
『右折二本目で問題ありません。住民の在宅時間帯と被るので、エンジンは現場入口の十メートル手前から切る方が好ましい』
「分かったっす」
「藤田さん。いまの、AI?」
「はい、うちの社長が全社員に持たせてるっす。よくわからないけど、すごいっす」
藤田は、現場入口の十メートル手前でエンジンを切った。軽トラックは惰性で、ゆっくり止まった。
「佐倉さん、こちらっす」
築八十年の二階建ての木造の家。
足場が組まれていた。屋根は、瓦が半分降ろされて、青い防水シートが被されていた。庭には、古い敷石が剝がされて、隅に積まれていた。
足場の下に、紺の作業服の透が立っていた。
***
頭には何度も塗料の染みついた、白いヘルメットが載っていた。ヘルメットの内側には、油性ペンで「タカナシ」と走り書きがしてあった。
「美月さん、どうも」
「こんにちは」
「ヘルメット、これ」
透は、自分の腰のフックから、もう一つの白いヘルメットを取って、美月に差し出した。
ヘルメットの内側には、新しい油性ペンで「サクラ」と美月の名字が一行、書かれていた。
「……書いてくれたの」
「書いてくれた、というか、ちょっと前に書きました」
「いつ?」
「昨日の夜にです。すみません、勝手に」
「ううん」
午前中、美月は現場を見ていた。
足場の上で、透ともうひとりの社員が梁の取り付けを進めていた。
ふたりとも、耳元に銀色のデバイスを着けていた。
「梁の芯から四百二十、左、まずは当て木で止めるよな」
足場の上の社員が、当て木を持ったまま、ふと手を止めた。
「社長。AIがいま『梁材の推定強度、下限寄り』って。当て木を四百二十で固定すると、十年後の沈下推定が、設計値の上限に触れるそうです」
透は、当て木に手を添えていた自分の手を、いったん離した。
足場の板の上に、当て木の影が、ひとつ伸びていた。
その影の長さを、しばらく目で測るようにしていた。
「直そう。位置はAIに聞く」
透は自分の耳元のデバイスに、低く声をかけた。
「四百二十を動かす。施主の使い方と、十年後の沈下、両方踏まえて、位置、出してくれ」
『四百三十五、まで寄せれば、十年後の沈下、設計値の中央に戻ります』
「四百三十五、で動こう」
「AIの声、ちゃんと拾ってきた。それでいい」
美月はヘルメットの下で、その光景を見ていた。
四つの声が同じひとつの向きを向いていた。ただ、最後の四百三十五を口の外に出したのは、社長の方だった。
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