第2話 同級生──焦げの粉とチーズの跡
奥の二人席のテーブルの上には、空になった皿がひとつ。
皿の縁に、わずかな焦げの粉と、はみ出して固まったチーズの跡が、そのまま残っていた。
男は、こちらに向かって軽く頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「焼いてくれた方ですか。佐倉さんで、合ってます?」
「合ってます」
「中学一緒だった、高梨です。覚えてます?」
「覚えてる、たぶん」
「『たぶん』って」
「中学2年生から登校しなくなったから」
「あ、そう、そうです」
男は両手でテーブルの端を軽く押さえてから、椅子に座り直した。
「座ってもいいですか」
「どうぞ」
美月は向かいの席に腰を下ろした。
向かいに座ると、男の耳元の銀色のデバイスが、ホールの蛍光灯の下でわずかに反射した。
「中学2年生から登校しなくなったの、何でだったの」
「あ、そこから来ますか?」
「いきなりすぎる?」
「いえ、いいです。──ただ、長くなるので、今日はやめておきます。中学校に、行く意味がわからなくなった。それだけ、いまは」
「……それだけ?」
「話すと長くなるので」
「いつか、ちゃんと、話してくれる?」
「話します。佐倉さんに、ちゃんと聞いてもらいたい話なので。今日のお礼に、いつか」
男は軽く笑った。
両側の口角が、同じ高さで上がる種類の笑い方だった。
笑った笑いは、対決の相手だった桐生 涼が撮影スタジオで見せた、口の左側だけ上がる種類の笑いとは、まったく違って見えた。
「いま、何してるの」
「父の継いで、工務店、やってます。古民家の改修、中心で。社員、二十人ちょっと。みんな、私と同じで、学校にあまり行かなかった連中です」
「……」
「うちの社員、難しいことが苦手なので、ひとりずつにAI持たせて回してます」
男は耳元の銀色のデバイスを、軽く指で叩いた。
「構造計算も、施工手順も、AIが脳の代わりになってくれる。私ひとりでは絶対にできない仕事が、それで回る。──社員のぶん、配ってます」
男は、テーブルの端から自分の名刺を一枚、ゆっくりと取り出した。
伝票の上に、その名刺を載せた。
> 高梨工務店 三代目
> 高梨 透
「お会いできて、よかったです。また、食べに来ていいですか」
「来てください」
「『誌面の対決の一皿』、好きです」
「ありがとう」
「『端の焦げ』、特に、好きです」
男はもう一度、テーブルの端を両手で軽く押さえてから、立ち上がった。
レジで会計を済ませて、ホールのドアの方へ歩いていった。
ホールのドアのベルが、軽く揺れた。
ベルの音の余韻が消えるまで、美月はテーブルの椅子から動かなかった。
***
夜、家に帰った。
書斎の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
『お帰り』
「ただいま」
『今日は何かあった』
「あった」
美月は、机の上に、その名刺を置いた。
青い光が、紙の白の上に薄くにじんだ。
「中学の同級生。中学二年生から不登校になって、そのまま辞めた人。いま、父親の工務店を継いでる。社員ひとりひとりに、耳元のAIを持たせて回してるって」
ケンの応答は、いつもよりわずかに間があった。
桐生の名前を、最初に聞いたときの種類の間とは違う間だった。
『……同級生。そういう同級生が、君のクラスにいたか』
「いた」
『私はその情報を、君から聞いたことがない』
「うん、話してなかったかも」
『なぜ、いま話す』
「今日、店に来たから。一人で」
***
ケンはしばらく黙った。
机の上の青い光が、いつもの強さで灯っていた。
『美月。「あの人」と君は呼ばなかった。『同級生』って呼んだ。君の語彙の中では、めずらしい』
「……そう?」
『そうだ』
美月は名刺を、しばらく見ていた。
紙の白の上の「高梨 透」の文字は、桐生 涼の文字を初めて企画書の上で見た夜のようには、点滅しなかった。紙の余白に、静かに馴染んでいた。
「父さん。いま、その人について、何か調査した?」
『調査していない。君が、まだ私に頼んでいないからだ』
「……そう」
『同級生、という単語を、君が今夜、口にしたこと。私は、それだけを残しておく』
美月は名刺を、机の上から取り上げた。
ハンドバッグの内ポケットに、塩、バター、チーズ、焦げ、の紙と並べてしまった。
書斎のドアの隙間の青い光は、いつもの細さで廊下に伸びていた。桐生の文字を最初に聞いた夜と同じ細さで、温度だけが、少し違っていた。
透との距離がゆっくり動き出す予感に【にこにこ】を。続きが待ち遠しくなったら★を。




