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第13話 谷の底──勝った、と

タクシーで、家まで戻った。


家の玄関(げんかん)を開けた。


書斎に入った。


ハンドバッグから耳飾りのケースを取り出して、机の縁で開けた。耳に通した瞬間、右の耳の奥に、ふだんの位置で、骨を通る振動の気配が戻った。


「ただいま」


『お帰り』


「父さん」


『うん』


「ぜんぶ、見てた?」


『見ていない。家のLANを離れた瞬間から、何も(とど)いていない』


「そう」


『結果は』


「勝った」


ケンはしばらく(だま)った。


『──そうか。お(つか)れさま』


「うん」


美月は椅子(いす)を引いて、机の前に座った。


机の角に手を置いた。木の感触(かんしょく)は、いつもと変わらなかった。


「父さん。ひとつだけ、白状(はくじょう)していい?」


『うん』


桐生(きりゅう)さん、いま頃、(くや)しがってると思う。悔しがらせてやった、と少しだけ思ってる」


『思っていい』


「思っていいの」


勝者(しょうしゃ)権利(けんり)だ。一晩くらいは、ざまあみろと思っていい。明日の朝には、もう思わなくなる』


「分かってる」


「父さん。勝ったよ」


『うん』


「お父さん、勝ったよ」


ケンは長く黙った。


机の上の円筒の青い光が、その沈黙(ちんもく)の中で、いつもよりほんの少しだけ長く、揺れずに灯っていた。


『勝ったのは、二人だ』


「……うん」


「……二人で、勝った」


『二人で、勝った』


机の上の青い光が、ひと呼吸ぶん、ふだんよりわずかに細く(しず)んだ。沈んでから、また(もと)の強さに戻った。


「父さん」


『うん』


「いまの、いつもより細かった」


『そうか』


「疲れたの」


ケンはしばらく黙った。


『──分からない。私の側で、いつもより半拍(はんぱく)ぶん(おく)れたような感覚(かんかく)はある。だが、私自身、それをうまく言葉にできない』


「そう」


それ以上は、訊かなかった。


美月はしばらく、黙っていた。


書斎の(まど)の外は、もう夕方の光に変わりはじめていた。


「父さん。桐生さんが今夜、お台場の海岸に来るかもしれないって」


線香(せんこう)を上げに』


「来るとも来ないとも、決めてないって言ってた」


『……そうか』


「会わせてあげたかった」


ケンは長く黙った。


『桐生は今日、お父さんの命題(めいだい)に会った。論文ではなく、君の卵の上で。それで、お父さんが桐生に会えなかったことの半分くらいは()まった』


「半分」


『あとの半分は、桐生が自分の手で()める』


「うん。父さん。私、行かなくていい?」


『行かなくていい。桐生が会いに行くとしたら、それはお父さんにで、君にではない。君は家にいなさい』


「分かった」


***


夜が来た。


書斎の青い光だけが灯っていた。


ハンドバッグから紙を出して、机の上に(ひろ)げた。十一日の夜の家の台所で書きつけた、四行の数値だった。


「父さん。明日から、銀杏亭(いちょうてい)でも、これでいい?」


『ある一皿だけ、これで行くか。銀杏亭のいつものオムレツは、いつものオムレツとして残しておけ。これは別の一皿だ。「誌面(しめん)の対決の一皿」として、メニューに()せたらいい。──西村(にしむら)は文句を言わないと思う』


「そうする」


机の上の紙をたたんだ。


たたんだ紙を、ハンドバッグの内ポケットに戻した。


書斎の机の上の青い光は、いつもと同じ強さで灯っていた。


ただ、その光の意味(いみ)だけが、半年前とは少しだけ違っていた。


「父さん。明日も、銀杏亭で焼くから」


了解(りょうかい)した。──明日も、焼きなさい』


「焼く」


書斎のドアは、今夜は閉めなかった。


完全(かんぜん)()(はな)したまま、廊下(ろうか)に出た。書斎の青い光が、廊下に長く()びた。


廊下で、耳飾りを外した。


外す前に、骨を通る振動の気配が、ふだんの位置でひと呼吸ぶん灯っていた。家の中であれば、廊下でも、台所でも、(つな)がっていた。


ケースに戻して、机の縁に置いた。


***


台所(だいどころ)に行った。


冷蔵庫(れいぞうこ)から、卵をひとつ出した。


割らずに、調理台(ちょうりだい)の上に置いた。明日の朝、銀杏亭の仕込(しこ)みより前に、自分の手でもう一度割るための卵だった。


(から)の表面に、台所の天井(てんじょう)の白い光がわずかに()った。


書斎の青い光と、台所の白い光が、廊下を(はさ)んで()かい合っていた。


ふたつの光のあいだに、もう(かべ)はなかった。


「父さん。桐生さん、海に着いたかな」


書斎の方に声をかけたが、耳飾りはもう外していた。耳の奥に、骨を通る振動の気配はなかった。返事(へんじ)は来なかった。


──あの海は、お父さんもいる海だ。


美月は自分の中で、そう答えた。東京湾の沖合で、骨はもう潮の流れに混ざっている。その潮のどこかに、たぶんいま桐生が立っている。立っていなくても、いつか立つ。


***


()た。


(ゆめ)は見なかった。


夢の代わりに、明日の朝、銀杏亭のコンロに火を入れる前の、台所のステンレスの冷たさの予感(よかん)が、軽く首筋(くびすじ)に残っていた。


その予感の隣に、もうひとつ、名前のつかない予感が薄く乗っていた。──書斎の青い光が、さっき、ひと呼吸ぶんだけ細く(しず)んだ、その輪郭(りんかく)だった。気のせいだ、と寝入(ねい)る前にもう一度自分に言い聞かせた。明日の朝には、いつもの強さに戻っているはずだった。


ただ、勝った夜の首筋の冷たさが、半年前のあの夜の冷たさよりも、ほんの少しだけ深い谷の底に立っていた。


それが、半年前のあの夜と、いちばん違うところだった。


今回の戦いで美月が掴んだものに胸を打たれたら【泣ける】を。ここまで一緒に降りてきてくれたあなたへの感謝を込めて、★をひとつ。本作のいちばん深い場所です。

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