第12話 谷の底──お台場の海岸
雑誌社のビルを出た。街路樹の緑が、午後の光の中で揺れていた。
最寄りの自動運転タクシーの乗り場まで歩き、先頭の一台に乗った。
「お台場まで。海の見えるところで」
『首都高経由、所要二十二分の経路で向かいます』
ハンドバッグの内ポケットに、薄い樹脂のケースが入っていた。家を出る前、書斎の机の縁から無造作に持ち出してきた、いつもの耳飾りのケースだった。
家を出るときに、書斎のケンには、こう言ってあった。
「会場には持っていく。けど、出さない。家に帰ってから出す」
『了解した』
家のLANを離れた瞬間に、耳飾りと書斎の円筒は切れる。それでも、家に置いてきたくなかった。父を家に置いてきたくなかった、と言ったほうが、正確だった。
タクシーは、お台場の海岸沿いの道で止まった。
降りた。
歩道を、海の方に歩いた。
海岸の人影はまばらだった。平日の午後だった。風はまだ冷たくはなかった。
防波堤の手前で立ち止まった。
防波堤の上は、人が何人か座って海を見ていた。
美月は、防波堤の手前のベンチに座った。
正面に、東京湾の広い水面が開けていた。
ハンドバッグから、薄い樹脂のケースを取り出した。
膝の上で開けた。
中の細い耳掛けを、ひと呼吸ぶん耳に通した。
右の耳の奥に、ふだん灯る小さな振動の気配は、なかった。
骨を通って続いてくるはずの父の声の代わりに、海の音だけが、両耳のかたちに沿って入ってきた。
美月は、しばらく耳飾りをつけたまま海を見ていた。
海の銀色の表面は、午後の光の中で鈍く揺れていた。
正面の沖合のどこかに、三年前の春、自分が骨を撒いた海域があった。
正確な場所は、もう覚えていなかった。
耳飾りを外した。
ケースに戻した。
ハンドバッグの内ポケットの紙の上に、ぴったりと重ねて置いた。紙には、塩、一・二グラム。バター、十グラム。チーズ、+五から+七グラム。焦げ、+〇・五秒、と書いてあった。
ポケットの端末が、ひとつ震えた。
莉子だった。「で、結果は」とだけ書いてあった。
「勝った」とだけ返した。
すぐに「やった」と返ってきた。そのあとに「酒、奢らせて。今夜」。「今夜は無理。明日」とだけ返して、端末を膝の上に伏せた。
風が、防波堤の向こうからひと吹き、強く吹いてきた。
ハンドバッグの紐の先が、ベンチの上で揺れた。
海の方に向き直った。
声に出すつもりはなかった。
「……お父さん」
口の端だけが動いた、というほどの声だった。出てしまってから、自分の声の小ささに、自分で少し笑った。
「勝ったよ」
海は答えなかった。海の銀色の表面は、わずかに揺らぎを変えただけだった。
それでよかった。家に帰るまでは、一人で持っていく。
西村の、二歩、と思った。
半年前の夜、銀杏亭の賄いの席で、湯呑みを両手で包んで言われた二歩だった。一歩は自分の舌で、もう一歩はケンの協力だった。
この二歩がなければ桐生に勝てなかったと思った。
ベンチから立ち上がった。
防波堤の上の人影は、もうひとりもいなかった。
海の方に、もう一度向き直った。
軽く頭を下げた。
下げた頭の向こう側、東京湾の沖合のどこかに、三年前の春の骨の撒かれた海域があった。
骨はもう、海の中で砕かれて、潮の流れに混ざっていた。
勝利をつかんだ美月を応援したいひとは【いいね】を。ここからの数行を、どうか見届けてください。




