第11話 焦げと隠しチーズ──カメラの赤いランプ
撮影クルーが、機材を整え始めた。インタビューのためのカメラの位置が、二人の間に回された。
編集部の女性が声をかけてきた。
「桐生さん、佐倉さん。インタビュー、お願いできますか」
「いいですよ」
桐生が答えた。
「俺から、いいかな」
「もちろんです」
「佐倉さんへの質問の最初は、俺にさせてくれ」
「はい?」
「悪いね、編集さん」
桐生は、編集の女性に軽く手を合わせた。
カメラの赤いランプが点いた。
桐生は美月に向き直った。
「佐倉さん」
「はい」
「向こう側の半段深い焦げ。うちのロボットの評価関数なら、大幅に減点される。──十万人の中央値からは、いちばん遠い方角だ。チーズも家庭の朝食より控えめに引いてある。君もそれは知ってたよね」
「家のAIが、教えてくれました」
「教えてもらって、それでもやった?」
「やりました」
「どうして」
美月はしばらく、桐生の目を見ていた。
桐生の目の奥の計算は止まっていた。
代わりに、計算の底に薄く沈んでいた子供のようなものが、いま、目の表面のすぐ下まで上がってきていた。
「桐生さん。うちのAIは、父のAIです」
「ああ。──そうだろうな」
「父のAIは、私に──」
そこで美月は一度、言葉を切った。
「うまく、言えません」
「うん」
「父のAIは、桐生さんのロボットと自分は、たぶん同じところに降りるって、そう言いました」
「同じところに」
「はい」
「そこから先は」
「そこから先は、私の舌の中にしかないって」
桐生はしばらく、何も言わなかった。笑い方を、もう選ばなくなっていた。
「……それ、先生の台詞、だよな」
「父の生前の台詞かは、分かりません。AIがどこかから再構成したのかも」
「うん」
「ただ、父はそれを、私には生前、話しませんでした」
桐生は長く息を吐いた。吐き終わってから、首を軽く横に振った。
「──まいったな」
「桐生さん」
「うん」
「父は、桐生さんのことを夜のログに残していました」
「夜のログ」
「父が生前、自分の弱音を母のシミュレーションに向かってこぼしていたログです」
「……ああ」
「その中に、桐生さんに論破された、と書いた一行がありました」
「……」
「父は、桐生さんに論破された、と書いていました」
「論破?」
「はい」
「俺は、論破できたとは思ってないけど」
「父は思ってました」
桐生はガラスの向こう側の、もう、空になりはじめている皿を見ていた。
老人の皿はすでに、ほとんど空になっていた。
「……そうか」
「はい」
「先生が論破された、と思ってたのか」
「思ってました」
「そう」
「桐生さん」
「うん」
「父は、その夜から桐生さんへの反論を書こうとしました。書きかけて、病気が見つかって、書けないまま死にました」
「……」
桐生はしばらく、ガラスの方を見ていた。それから視線を、ロボットアームの横のモニターに移した。
モニターのグラフは、もう揺れていなかった。最終数値だけが表示されていた。すべて、数値の谷の底だった。
「俺のロボットは、十万人の平均の谷の底に辿り着いた」
「はい」
「君の卵は、そこから外の、別の谷に刺さった」
「はい」
「──そういうことだったのか」
カメラはまだ回っていた。
撮影クルーの誰も、口を挟まなかった。
桐生はもう、こちらを見ていなかった。
ガラスの向こう側の、空の皿の上に視線を置いていた。
「佐倉さん。最後にひとつだけ、いいかな」
「はい」
「先生の骨は、東京湾、だったよな。沖合」
「はい」
「先生は、あの沖合で自分の晩年の論文の続きを、ずっと書いてたわけだ」
「……」
「俺は今日、その続きを、読まされた気がする」
「はい」
桐生はそこで一度、口を結んだ。
「──いや」
「はい」
「すぐには、受け入れられないけどな」
「はい」
「だが、読まされた、ということだけは、分かった」
桐生は軽く頭を下げた。
最初に会議室で軽く頭を下げたときと、ほとんど同じ角度の下げ方だった。
撮影スタッフがカメラを止めた。
編集部の女性が、軽く息を吐いた。
「ありがとうございました。──いったん、お時間取らせていただきますね。お二人とも、控え室で少し休まれてください」
「ええ」
「はい」
***
控え室は、二人別々の部屋に分かれていた。
廊下に出る前に、桐生がもう一度こちらを見た。
「佐倉さん」
「はい」
「うちのロボットを、もう一度考え直す。──ひき肉とケチャップの上に焦げとチーズを足すだけじゃ、たぶん足りない」
「はい」
「どこまで書き換えるかは、これから考える」
「はい」
桐生はしばらく、廊下の床のあたりに目を落としていた。
廊下を二、三歩進んでから、ふいに足を止めた。こちらは振り返らなかった。
「今夜、海岸の方に出るかもしれない。──行くとも、行かないとも、決めてない」
「はい」
桐生はそれから、軽く笑った。それが、初めて目の表面に出てきていた。
桐生は廊下の奥に消えた。エレベーターのボタンを押す音が聞こえた。
***
控え室で、コックコートを脱いだ。胸元の緑の刺繍が、しわでわずかに歪んだ。紺色のワンピースに着替え、エプロンの紐はほどいた。母の麻のエプロンの紐の位置を思い出していた。
控え室を出た。エレベーターを待つ間、廊下のガラスの向こうで、撮影クルーが桐生のロボットのアームを銀色の運搬用ケースに納めていた。蓋を閉める音が、廊下にもわずかに届いた。
父の「隠しチーズ」に込められていた意味に胸が熱くなったら【泣ける】を。じんと来たら、★をひとつ。




