第10話 焦げと隠しチーズ──老人のフォーク
老人のフォークが止まったまま、しばらく動かなかった。
口の中で、何かを確かめているような止まり方だった。
老人の隣の年配の女性が、軽く声をかけた。
「先生、どうかなさいましたか」
老人は答えなかった。
ただ、フォークを皿の上にゆっくりと戻した。
戻して、それから長い息を吐いた。
ガラスのこちら側は防音だった。
向こう側の声は、編集部の用意した別系統のマイクを通して、撮影クルーのヘッドフォンに入っていた。
撮影クルーのヘッドフォンをつけていた若い男が、ふいに横を向いた。
「……桐生さん。佐倉さん」
「ん」
「審査員のいちばん奥の白髪の方、何かおっしゃってます」
「マイク、繋いでください」
桐生が声を出した。
スタッフが、いくつかのボタンを押した。
会場のこちら側にも、向こう側の低い声が流れ始めた。
老人の声だった。
低く、かすれていた。
「……うちの母が、こういうのを焼いた」
「えっ」
隣の女性がフォークを止めた。
「先生のお母さま」
「うん」
老人はガラスのこちら側に顔を向けた。
ガラスのこちら側からは、老人の輪郭しか見えなかった。それでも、肩が一度深く上下するのが、はっきりと伝わった。
「もう亡くなって、長い」
「……」
「久しぶりに、思い出した」
老人はそれだけ言って、皿の縁に視線を落とした。それ以上は何も言わなかった。
会場の空気が変わった。
桐生が自分の手元の皿を見た。
ロボットの出した一皿。
そこには焦げもチーズもなかった。
代わりに、合挽肉と玉ねぎの粒が、卵の中に均一に整列して埋まっていた。皿の上のケチャップのひと筋が、まっすぐに伸びていた。
老人の母個人の手の届かない場所の、十万人の咀嚼回数の谷の底だった。
ガラスのこちら側で、桐生は長く息を吐いた。
吐いた息の温度は、こちらの撮影クルーには聞こえなかった。
それでも、息の形だけが、桐生の肩の輪郭のわずかな揺れになって、こちら側に伝わった。
審査員席の方で、フォークが止まっていた。
老人の隣の編集長は、自分の皿の縁にそっと指を添えて、軽く頷いた。何かを言いかけて、結局、言わなかった。残るひとり、四十代の男──無作為に選ばれた一般読者は、自分の皿と、向こう側の桐生のロボットの皿の写真とを、視線で何度か往復させていた。
会場の空気が揺れていた。
ガラスのこちら側で、桐生は両手を後ろに組んだまま立っていた。
両手の組み方は、最初の十秒間と変わっていなかった。
ただ、肩の線の力が、ほんの少しだけ抜けていた。
***
司会の編集部員がマイクを戻した。
「皆さま、感想はお聞かせいただきました。──それでは、投票に入らせていただきます」
審査員の三人の手元に、白い無記名の投票用紙が配られた。
桐生はそれを見ていた。
美月も見ていた。
投票は二、三分で終わった。
集計が始まった。
集計係の編集スタッフが数を数えた。数え終わってから、数字をもう一度確認した。確認してから、編集長に手渡した。
編集長は、結果を読み上げる前に一度、こちらの二人のシェフの顔を見た。
それから、マイクに口を寄せた。
「結果を申し上げます」
会場の空気が止まった。
「ロティ・スマート、桐生 涼さま、一票」
「銀杏亭、佐倉 美月さま、二票」
「銀杏亭、佐倉 美月さま、勝ちとさせていただきます」
会場の撮影クルーから、小さな拍手が起きた。
審査員席からも、拍手が流れてきた。
その中で、桐生は両手を後ろに組んだまま、しばらく動かなかった。
そのうち、ゆっくりとこちらに向き直った。
桐生は軽く頭を下げた。
「──負けました」
「……」
「ロボットは、計測できるぜんぶの項目で勝ってる。塩、バター、卵の撹拌、温度、ひき肉の混ざり、ケチャップの照り、全部、上だ」
「はい」
「そして、負けた」
「はい」
桐生は笑った。
笑った、というより、笑い方を選び損ねていた。
焦げと隠しチーズをめぐる攻防にどきどきしたら【びっくり】を。緊張に引き込まれたら★を。




