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第9話 対決の朝──ロボットアーム、スタート

司会(しかい)担当(たんとう)の若い編集部員(へんしゅうぶいん)がマイクを(にぎ)った。


「それでは、定刻(ていこく)になりました。新旧対決(しんきゅうたいけつ)企画(きかく)、二〇三〇年代のオムレツ。よろしくお願いいたします」


撮影スタジオの空気が止まった。


桐生はロボットアームの横のボタンを、軽く押した。


「スタート」


ロボットアームが、(なめ)らかに動きはじめた。


冷蔵庫(れいぞうこ)の前にアームが()びた。卵を四個、グリッパーで(やさ)しくつまんだ。作業台に戻ってきた。ボウルの(ふち)(から)微細(びさい)亀裂(きれつ)を入れ、もう一本のアームの細い指がその亀裂に沿()って殻を二つに開いた。中身だけが落ち、空の殻はそのまま(わき)のトレーに置かれた。四個、続けて同じ動作だった。


割れた卵の白身(しろみ)が、一滴(ひとしずく)もボウルの外にこぼれなかった。



塩、一・二グラム。バター、十グラム。牛乳、大さじ一。


数値が画面にリアルタイムで表示(ひょうじ)された。


別のアームが、銀色の小鍋に合挽肉(あいびきにく)五十グラムと玉ねぎのみじん切り三十グラムを投入(とうにゅう)した。火が入り、油の音が立った。水分を飛ばし切るところでアームが小鍋を持ち上げ、卵液のボウルの上で傾けた。ひき肉と玉ねぎの粒が、卵液の中に均一に()った。


撹拌(かくはん)速度(そくど)は、毎秒四回転。撹拌の時間は三秒。フライパンはすでに別のアームが火にかけていた。表面温度、摂氏(せっし)百七十度。


会場の誰も、桐生のロボットの動きから目を(はな)せなかった。


美月は自分の作業台に向き直った。


桐生のロボットを見るのは止めた。


ボウルを出した。


冷蔵庫から、卵を三個出した。


割った。三個続けてボウルに割った。最後のひとつだけ、白身がわずかに指先(ゆびさき)(つた)った。布巾で軽く()いた。


塩。胡椒。生クリーム。バター。


自分の手の感覚(かんかく)で、それぞれ入れた。(はかり)は使わなかった。秤はすでに頭の中に入っていた。家の十一日の夜と、銀杏亭の半年と、ケンの声の(おも)みが、すべて自分の手の中に(そろ)っていた。


塩は、ケンの言った量と同じだった。


生クリームも、ケンの言った量と同じだった。


バターも、ケンの言った量と同じだった。


それから、グリュイエールの塊をおろし金にあてた。


おろした。


おろしたチーズを、卵液(らんえき)の中に()とした。


ケンの言った二十グラム、ちょうどで止めた。


あのまかないの夜の、自分の手が勝手に止まる、その場所までは、今日はおろさなかった。


家庭の母のチーズは、香りが薄く立つ場所で止める。それを、十一日の夜のうちに、ケンと一緒に決めていた。


グリュイエールの香りが、控えめに卵液(らんえき)の上に立った。


「正しい」という言葉は、今日も自分の中で言葉にしなかった。


桐生のロボットは、すでにフライパンに卵液を(なが)し込んでいた。


奥から手前に、撹拌のアームが滑らかに動いていた。秒速、四回転。間隔(かんかく)()らぎは、肉眼(にくがん)ではもう見えなかった。


会場の撮影クルーのひとりが、息を漏らした。


「すげえ……」


桐生は両手を後ろで組んだまま、ロボットのフライパンを見ていた。


美月は自分のフライパンを火にかけた。


予熱(よねつ)の時間は、ケンの言った温度を、まず目安(めやす)にした。


バターを一片(ひときれ)、落とした。


バターの()け方の速度が、家のとも銀杏亭のとも、わずかに違った。会場の業務用のフライパンは、家のよりほんの少しだけ熱伝導(ねつでんどう)が速かった。桐生の言った〇・三度のずれは、たぶん合っていた。


美月は火力(かりょく)を、ほんの少しだけ下げた。


下げ方は、ケンの評価関数(ひょうかかんすう)からは出てこない判断(はんだん)だった。家のガスコンロのツマミの一段の感覚と、銀杏亭の業務用ガスの半段の感覚を両方思い出して、その中間(ちゅうかん)で押した。


卵液を流し込んだ。


奥から手前に撹拌した。秒速、四回転。


家の十一日の夜と、ほぼ同じ秒速だった。


火を弱めた。


フライパンを(かたむ)けた。


卵がゆっくり、向こう側に()っていった。


***


寄り切る一歩手前。


ここから先が、自分の一手だった。


美月はフライパンの向こう側の縁を、ほんの少しだけ長く火に(あず)けた。


家の台所の十一日目の夜と同じ、〇・五秒だった。


向こう側の縁の卵が、フライパンの金属(きんぞく)に、いつもより〇・五秒長く()れていた。


茶色い線が入った。


家の十一日目の夜と同じ、半段(はんだん)深い線だった。


撮影クルーのひとりが息を止めた。


カメラはすでに、美月のフライパンの向こう側の縁に寄っていた。


「……()がした、いま」


カメラマンが小声(こごえ)で言った。


桐生がこちらを見た。


短く見た。


それから、自分のロボットのフライパンに視線を戻した。


戻したが、視線の戻し方が、最初の十秒間とはわずかに違っていた。


皿に(すべ)らせた。


会場の白い業務用の平皿(ひらざら)だった。


オムレツが滑らかに皿に()ちた。


向こう側の半段深い焦げが、皿の上ではっきりと見えた。グリュイエールの白い欠片(かけら)が、卵の断面(だんめん)のいくつかから、薄く(のぞ)いていた。


完成(かんせい)までの時間は、十二分四十三秒だった。


二十分の制限時間に対して、半分強。


十分、()に合っていた。


桐生のロボットも、ほぼ同時に皿に落とした。


ロボットの皿は、(すき)のない黄金色(おうごんいろ)の卵の中に、合挽肉(あいびきにく)と玉ねぎの粒が均一に整列(せいれつ)していた。皿の上には、別のアームの先からケチャップが細くひと筋(なが)されていた。()りがまっすぐに()びていた。


家庭の朝食の卓ではなく、駅前のチェーン店のカウンターに(なら)ぶ一皿だった。


撮影クルーのひとりが、小声でもうひとりに言うのが聞こえた。


「あれ、すごくないか」


「桐生さんの方?」


「いや、両方」


「両方?」


「桐生さんのは、ファミレスの完璧版みたいだ。佐倉(さくら)さんのは、家庭の夕食(ゆうしょく)みたいだ」


「家庭の夕食」


「分かんないけど、そう見える」


***


司会担当の編集部員がマイクを握った。


「それでは、両者(りょうしゃ)、お皿を三枚ずつに()り付けて、審査員席へお運びください。お時間は八分ございます」


ロボットアームがすぐに動き始めた。


完璧(かんぺき)三等分(さんとうぶん)の卵が、三枚の白い皿の上に配置(はいち)された。三枚それぞれの皿の上で、ケチャップの()りがまったく同じ(なが)さでまっすぐに走っていた。(たが)いの誤差(ごさ)が、目視(もくし)では判別(はんべつ)できなかった。


美月も、自分のオムレツに包丁(ほうちょう)を入れた。


包丁は家のものを持ってきていた。


()り分けた三片(さんぺん)は、わずかに大きさが揃わなかった。半段深い焦げの線が、三片にそれぞれ違う長さで分配(ぶんぱい)された。チーズのはみ出しの量も、三片でわずかに違った。


それでも、三枚の皿の上に、自分の卵が揃った。


揃ったところで、皿を運んだ。


審査員席は、ガラスの向こう側だった。


ガラス越しに、三片の皿が、長机のそれぞれの席に配置された。


審査員の三人が、皿の前に座っていた。


ひとり、ひとり、年齢が違った。


いちばん(はし)、左側の奥の席に、白髪(しらが)()せた老人(ろうじん)が座っていた。年齢は、八十をわずかに()えているように見えた。痩せた長い指で、フォークを握っていた。──年配の食評家の、その人だった。


美月の視線(しせん)が、その席の上で、ほんの半呼吸(はんこきゅう)ぶん長く止まった。事前に編集部から届いていた審査員三人ぶんの名前と年齢と職歴(しょくれき)は、十一日の夜の家の台所で、ケンの口から何度も読まされて、もう頭の中に並んでいた。素性(すじょう)のわかる二人のうちのひとり。過去の誌面の随筆(ずいひつ)で、母の作る家庭料理(かていりょうり)原点(げんてん)だと一度書いていた、その人だった。


会場の空気が止まった。


司会担当の編集部員が、マイクで合図した。


「それでは、(みな)さま、お()し上がりください」


三本のフォークが、いっせいに動いた。


ガラスの向こう側の三つの皿で、三つの口がほぼ同時に卵を(むか)え入れた。


***


桐生は両手を後ろに組んだまま、ガラスの向こう側を見ていた。


美月も両手を、エプロンの(ひも)の前に揃えて、ガラスの向こう側を見ていた。


ガラスの向こう側、いちばん左側の奥の席で、白髪の痩せた老人のフォークがひとつ止まった。


一歩も引かない美月に「いいぞ」と思ったら【いいね】を。前へ出た彼女に、★で背中を押して。

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