第8話 対決の朝──コックコートを提げて
朝、九時に家を出た。
銀杏亭の白いコックコートを、肩から提げて家を出た。コックコートは、まだ袖を通さなかった。会場で着替える。
「行ってきます」
『行ってきなさい』
「……父さん」
『うん』
「会場で、私はひとり」
『分かっている』
「それでも、いい」
『それでいい。──行ってきなさい』
***
玄関のドアを閉めた。
廊下の青い光は、ドアの内側に残った。
撮影スタジオは、雑誌社のビルの五階にあった。
廊下の突き当たりのガラスのドアの向こうで、撮影用ライトの白い光が強く漏れていた。
***
控え室でコックコートに着替えた。胸元の銀杏亭の店名の刺繍は、西村が自分のコートと同じ緑糸で半年前に入れさせたものだった。
業務用厨房は白く広かった。中央に対称に置かれた二台の作業台。奥の壁のガラス越しに、半円形の審査員席が見えた。ガラスは片側だけが半透過で、こちらからは輪郭しか見えなかった。
桐生はもう来ていた。奥のコンロの前。コックコートではなく、黒いシャツに黒いパンツ、胸元にロティ・スマートの白いロゴ。隣に、天井から吊られた銀色のロボットアームが一台立っていた。本体の横の薄型モニターに、十数本のグラフがリアルタイムで揺れていた。
「おはよう」
桐生がこちらを見た。
「おはようございます」
「眠れた?」
「ぼちぼち」
「俺は、よく眠れた」
桐生は笑った。
「うちのロボットは、夜のうちに最終調整、終わってる。俺の仕事は、もうない。当日、立ってるだけ、らしい」
「そうですか」
「そう。──今日は、立ってるだけ」
編集部、撮影クルー、照明、音声。十人ほどの人間が業務用厨房の外側を囲んでいた。
審査員はすでにガラスの向こうの空間に入っていた。三名。編集長、年配の食評家、無作為に選ばれた一般読者ひとり。
ルールの再確認だった。
> 制限時間、二十分。
> テーマ、オムレツ。
> 卵、調味料、ハーブ類は、会場が用意する。卵は、同一の生産地、同一のロット。
> それ以外の食材は、各自、持ち込み可。
> 焼き上がった一皿を、三枚の白い皿に、それぞれ、同量ずつ盛り付ける。
> 三名の審査員が、無記名で投票する。
「持ち込みの食材は、ありますか」
「あります」
美月は答えた。
足元の銀色の保冷バッグを、作業台の上に置いた。
蓋を開けた。
中には、銀杏亭で毎日使っている、上質のグリュイエール、チーズの塊が、ひとつ入っていた。布巾に包まれていた。家からここまで、保冷剤と一緒に運んできた。
塊の大きさは、こぶしひとつ分だった。
桐生は横目でそれを見た。
「チーズか」
「はい」
「うちは、卵に合挽肉と玉ねぎを混ぜて、ケチャップで仕上げる。──十万人の咀嚼回数と滞在時間と食べ残し量で最適化したら、そこに降りた」
「そうですか」
「そう。──シェフが自分の舌で味見するなんて、サンプル数1の主観じゃないか。俺は十万人の咀嚼回数で味を決める」
桐生はそれ以上、言わなかった。
開始まで、まだ二十分あった。
撮影クルーが最後の機材の調整をしていた。照明は二台追加された。一台は、桐生のロボットのフライパンの真上だった。一台は、美月のフライパンの真上だった。強い光が手元の影を消していた。
美月は自分の作業台の上を整えた。
ボウル。塩。胡椒。生クリーム。バター。グリュイエールの塊。おろし金。フライパンは、会場の業務用の新しいステンレスのフライパンだった。家のとも、銀杏亭のとも違うフライパンだった。
桐生が声をかけてきた。
「佐倉さん」
「はい」
「フライパン、初めてのやつ」
「はい」
「うちのロボットは、こいつの表面の熱の上がり方をすでに測ってる。同条件で、工場の基準器との到達温度の差は〇・三度。十分、補正できる」
「そうですか」
「君は、補正できないだろう」
「……」
「悪意はない。情報共有」
「ありがとうございます」
桐生は薄く笑った。
笑い方は、会議室のときとは違っていた。
時計の針が進んだ。
対決の朝の張りつめた空気に息を詰めたら【いいね】を。いよいよの予感に★をひとつ。




